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はじめまして。Hozと申します。
元某大学事務職員、現某法人事務職員の若造です。
目標は、Web上での大学職員同士のネットワーク作り。
そのために、実験的にサイトをひとつ作ってみました。
↓ ↓ ↓

現在は、そのサイトを普及させようと画策中で、こんなブログを更新中。
ちなみに、こんなサイトとは打って変わって会員1000人越えの大学職員限定SNS
「大学職員.network」にも一応参加してます。まだ参加されていない大学職員さん
はぜひお試しを。某SNSと同様紹介が必要ですが、自分で良ければ紹介します。
連絡先は、m-daigaku[あっとまーく]live.jp まで
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2037/01/01(木) 09:00:00 | 未分類 |
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「本日の論語」第四回。第三回はこちら。過去の記事一覧はこちら。
巻第一 為政第二 15
子の曰わく、学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし
訳;先生が言われた。「学んでも考えなければ物事ははっきりしない。考えても学ばなければ(独善に陥って)危険である。」
学ぶことと考えることは一対であり、どちらが欠けてもうまくいかない、ということをこの一節は述べている。これを料理に例えるならば、学ぶこととは料理本を読むということ、考えることは調理それ自体である。両者がうまく組み合ってこそ、おいしい料理を作ることができる。つまり、正しい認識を持つことができる。
前段に述べている内容は「百聞は一見に如かず」というよく知られたことわざを考えれば容易に理解できるだろう。すなわち、どれほど料理本を研究したところで、実際に調理をしてみなければおいしい料理を作ることはできない。
かといって、単純に考えていれば、つまり調理ばかりをしていれば良いというわけでもない。この部分への配慮も忘れていないのがこの一節の名言たる所以であろう。後段にあるように、いかに考えようとも他の人間や文献に学ばなければ独善的になって、つまり自分自身の考え方に固執するようになってしまうと警告している。
ただし、今の世の中を見る限りでまず考えてなくてはならないのはこの話以前であって、学ぶことと考えることと、そのどちらも不要な、いわばレトルト食品というべきものが横行している点であろうかと思われる。これはもちろん例え話であり、学ぶ必要も考える必要もないような情報が溢れているということである。テレビがもっとも顕著であるように思うけれども、何かの出来事があった際にニュース番組がそれを扱う場合、その事実そのもののみを報道するなどということは滅多にない。そこには必ずと言って良いほどその道に関わっている人の「解説」が入る。この「解説」というものが厄介である。というのも、その「解説」を聞くことにより、自分自身でその問題について何も考える間もなく、その問題を「理解」してしまうためである。そして、人によってはその解説者の「解説」をさも自分自身の考えであるかのように振る舞うようになってしまう。
何らかの問題を真に理解しようと思うのならば、複数の筋から取得した情報を吟味し、その上でそれらを元に自分自身の頭の中でもう一度考え直してみる必要がある。けれども、この問題はこのように捉えるべきだ、というようなご丁寧が過ぎる「解説」付きの報道は、受け手のそういった行為の必要性を失わせてしまう。
このような調理不要、つまり学ぶ必要も考える必要もない情報が世に溢れている。そして、だらしない大学生のごとく、料理もできない、すなわち物事を学ぶことも考えることもできない人間が増える一方である。この危険性はあまり認識されていないように思われるが、そう思われるのであれば毒餃子事件を思い返してみていただきたい。昨年は、中国産の冷凍食品から毒性の高い物質が検出されるという事件が大きく取り上げられた。与えられた情報ばかりを鵜呑みにするということは、その中身をまったく知ることも知らされることもなく口に運ぶということであり、常に同様の危険を孕んでいる。個別具体的な話は割愛するけれども、毒餃子に比肩するような思想的劇物は確かに存在する。
商売人の飯の種は人間の欲望であり、今の怠惰が怠惰であり続ける限り、この手の誘惑もまたなくならない。となれば、一人一人が自らを省みる他に取ることのできる対策はない。ただし、それらの毒を避ける方法は簡単だ。それは、自炊をすることである。皮を買い、挽肉その他を買い、自ら包んで煮るなり焼くなりすることである。すなわち、すでに述べたとおり、複数の筋から取得した情報を吟味した上で、それらを自分自身の頭の中でもう一度考えてみることである。
※ 今回取り上げた一節ですが、今日たまたま眺めていたノーベル賞関連の特番で、物理学賞を受賞された南部陽一郎先生が若者へのメッセージとして書いておられました。偶然も良いところですがちょうどこの記事を書いているところだったので驚きました。とりあえずWikipediaのリンクを貼っておきますが、知れば知るほどにこの方はものすごい方です。受賞、本当におめでとうございましたとこんなところにこっそり書いておきます。
Wikipediaで「南部陽一郎」を検索!
☆本日のコピペのコピペ☆
r ‐、
| ○ | r‐‐、
_,;ト - イ、 ∧l☆│∧ 良い子の諸君!
(⌒` ⌒ヽ /,、,,ト.-イ/,、 l 信じるものがすくわれるのは
|ヽ ~~⌒γ⌒) r'⌒ `!´ `⌒) 足元だけなのだという事を肝に銘じておけ!
│ ヽー―'^ー-' ( ⌒γ⌒~~ /|
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| irー-、 ー ,} | / i
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巻第一 為政第二 15
子の曰わく、学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし
訳;先生が言われた。「学んでも考えなければ物事ははっきりしない。考えても学ばなければ(独善に陥って)危険である。」
学ぶことと考えることは一対であり、どちらが欠けてもうまくいかない、ということをこの一節は述べている。これを料理に例えるならば、学ぶこととは料理本を読むということ、考えることは調理それ自体である。両者がうまく組み合ってこそ、おいしい料理を作ることができる。つまり、正しい認識を持つことができる。
前段に述べている内容は「百聞は一見に如かず」というよく知られたことわざを考えれば容易に理解できるだろう。すなわち、どれほど料理本を研究したところで、実際に調理をしてみなければおいしい料理を作ることはできない。
かといって、単純に考えていれば、つまり調理ばかりをしていれば良いというわけでもない。この部分への配慮も忘れていないのがこの一節の名言たる所以であろう。後段にあるように、いかに考えようとも他の人間や文献に学ばなければ独善的になって、つまり自分自身の考え方に固執するようになってしまうと警告している。
ただし、今の世の中を見る限りでまず考えてなくてはならないのはこの話以前であって、学ぶことと考えることと、そのどちらも不要な、いわばレトルト食品というべきものが横行している点であろうかと思われる。これはもちろん例え話であり、学ぶ必要も考える必要もないような情報が溢れているということである。テレビがもっとも顕著であるように思うけれども、何かの出来事があった際にニュース番組がそれを扱う場合、その事実そのもののみを報道するなどということは滅多にない。そこには必ずと言って良いほどその道に関わっている人の「解説」が入る。この「解説」というものが厄介である。というのも、その「解説」を聞くことにより、自分自身でその問題について何も考える間もなく、その問題を「理解」してしまうためである。そして、人によってはその解説者の「解説」をさも自分自身の考えであるかのように振る舞うようになってしまう。
何らかの問題を真に理解しようと思うのならば、複数の筋から取得した情報を吟味し、その上でそれらを元に自分自身の頭の中でもう一度考え直してみる必要がある。けれども、この問題はこのように捉えるべきだ、というようなご丁寧が過ぎる「解説」付きの報道は、受け手のそういった行為の必要性を失わせてしまう。
このような調理不要、つまり学ぶ必要も考える必要もない情報が世に溢れている。そして、だらしない大学生のごとく、料理もできない、すなわち物事を学ぶことも考えることもできない人間が増える一方である。この危険性はあまり認識されていないように思われるが、そう思われるのであれば毒餃子事件を思い返してみていただきたい。昨年は、中国産の冷凍食品から毒性の高い物質が検出されるという事件が大きく取り上げられた。与えられた情報ばかりを鵜呑みにするということは、その中身をまったく知ることも知らされることもなく口に運ぶということであり、常に同様の危険を孕んでいる。個別具体的な話は割愛するけれども、毒餃子に比肩するような思想的劇物は確かに存在する。
商売人の飯の種は人間の欲望であり、今の怠惰が怠惰であり続ける限り、この手の誘惑もまたなくならない。となれば、一人一人が自らを省みる他に取ることのできる対策はない。ただし、それらの毒を避ける方法は簡単だ。それは、自炊をすることである。皮を買い、挽肉その他を買い、自ら包んで煮るなり焼くなりすることである。すなわち、すでに述べたとおり、複数の筋から取得した情報を吟味した上で、それらを自分自身の頭の中でもう一度考えてみることである。
※ 今回取り上げた一節ですが、今日たまたま眺めていたノーベル賞関連の特番で、物理学賞を受賞された南部陽一郎先生が若者へのメッセージとして書いておられました。偶然も良いところですがちょうどこの記事を書いているところだったので驚きました。とりあえずWikipediaのリンクを貼っておきますが、知れば知るほどにこの方はものすごい方です。受賞、本当におめでとうございましたとこんなところにこっそり書いておきます。
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新年あけまして、おめでとうございます。
旧年中は多数の閲覧をいただきありがとうございました
いつのまにかカウンタも1000を超えておりました。世間ペースで考えればたいしたことではありませんが、自分としては健闘している方です。最近ひどく更新ペースが落ちておりますが、これは色々と別の用事が入ってきているためで、やらなくてもまったく支障のないブログ更新に割く時間は削りに削られているというのが現状です。待ち望んでいる方がいるかどうかも怪しいところで釈明するのもどうかと思いますが、大学の歴史シリーズは2月辺りまで取りかかれそうにない状況です。それまでは謎の論語ブログと化すかと思いますが、お付き合いいただければ幸いです。
ちなみに目下の最大の課題は放送大学。「大学と社会」という格好のネタなのですが、けっこう内容が盛りだくさんで、今のところは吸収するのが精一杯でそれを出力するまでには至っていないのが現状です。これ絡みの記事も書けると良いのですが。
こんな調子ですが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。
「本日の論語」第三回。第二回はこちら。過去の記事一覧はこちら。
巻第一為政第二14
子の曰わく、君子は周して比せず、小人は比して周せず。
訳: 先生が言われた。「君子は広く親しんで一部の人におもねることはないが、小人は一部でおもねりあって広く親しまない。」
広く浅く親しむことと狭く深く親しむことは両立しえない。それは一斤のパンを厚く切れば枚数が少なくなり、薄く切れば多くなるのと同じことだ。厚く、多く切ることはできない。となればそのいずれかを選択せざるを得ないのだが、どちらかと言えば望ましいのは君子のやり方として挙げられている、広く親しむということではないだろうか。一部の人間と狭く深く親しむことは、それ以外の人間と相対的に関わらなくなるということであり、それは付き合いを限定してしまうことから必然的にその枠内でのおもねりにつながり、それが宜しくない方向へと事を運ぶ。世に起こるあらゆる不正も結局のところ、そこに端を発している。多くの人間と関わり合うことによって、一部の一方的な考え方に思想・行動を支配されることなく広く状況を認識することができ、その結果として正しいことを行うことができるようになる。
この辺りの感覚というのは、現代においては通じにくいものなのではないかと思う。友情やら愛情がもてはやされる世の中である。それは、ここで言うところの一部でのおもねりとしか自分には思われない。多少エキセントリックであるのを承知で言うが、自分は昔から「友達を大切にしましょう」といった文句が嫌いだった。簡単な話で、友達以外ならば大切にしなくて良いのか、と思われたためだ。むしろ自分が大切にしていたこと、そして今も大切にしていることは「人情」、つまり知人他人を問わぬ他者への思いやりである。前に挙げた「友達を大切にしましょう」的価値観を友情と呼ぶならば、これらは言葉こそ似ているけれども、その中身は大きく異なっている。
たとえば、友情に赤の他人は含まれない、つまるところ、友情は人情の一部でしかないのである。また、友情イコール人情ではない。人情の人は友情の人ほどに一部の親しい人間を優遇するわけには行かない。友情が一部の人間のみにもたらされるものであるのに対して人情の対象は不特定多数であり、その一人あたりの分量は相対的に少なくならざるを得ないためである。これは冒頭のパンの例を考えれば良かろう。かつ、人情においてその割り当てはそれぞれの相手への関係性の深さと反比例するものである。つまり、他人が丁重に扱われ、その一方で友人はぞんざいに扱われるということになる。
ここから分かるように、人情というのはそれによって直接的な利益をもたらすものではない。友情を大切にして特定の誰かとの親交を深めておけば、いざというときに頼りになるのかもしれないが、人情を大切にするということはそういった存在をあえて持とうとしないということである。とはいえ、それはたしかに直接的な利益をもたらすものではないにせよ、それがまったく何の利益ももたらさないというわけではない。あらゆる場面において、目の前の人間が他人である可能性は、友人である可能性よりもはるかに高い。よって、その他人を丁重に扱うということは、同様にその他人から丁重に扱われることを期待することができる。もっとも、他人との関係は友人との間にあるような個別のつながりがあるわけでなく、かつ、そういった価値観が社会に共有されているわけでもないのだから、見返りを期待できるようなものではない。しかし、そういった目の前の見返りのためだけでなく、広く社会を考えて行動することに意味がないわけではないのだ。繰り返すが、目の前の人間が他人である可能性は、友人である可能性よりもはるかに高い。その他人を大切に扱うということは、その相手に対して他人に大切にされるという経験を与えることであり、そういった経験を与えるということはその人間が自分が受けたのと同じように他人を大切に扱うという契機を与えるということである。この繰り返しによってこそ、社会への信頼感は醸成される。反対に言えば、この逆の体験の繰り返しが社会への信頼感を崩壊させる元凶となる。
今の時代ほど人情が求められている時代はないだろう。社会における相互の不信感は増すばかりである。そこに多種多様な原因があることは間違いないが、その一端を担っているのが友情、つまり「小人の一部でのおもねり」であるとわたしは考える。社会とは、どこまでも他人との共存の場である。その社会において、皆が自分の友人ばかりを大切にし、それ以外を相対的に大切にしないのであれば、世の中には小さな集団ごとの対立が生まれる一方である。そう言えば本日は誰かさんの誕生日だが、その誰かさんも言っていたではないか。汝の隣人を愛せよ、と。これは何も隣の奥さんとの不倫を推奨しているわけではない。これも同様に自分以外の全ての人間を愛せ、という教えである。結局のところ、それが西と東を問わず君子としての人間の付き合い方であり、各人がそのような生き方を努めてこそ安定した平和な社会が達成されうるということなのだろう。そして、その逆もまた然りということで今のこの現実があるということであろう。もちろんそれは簡単にできることではないけれども、少なくともそれが問題であるという認識程度は持ち合わせておきたいものだ。とりあえず、自分の場合は情の総量が足りないとよく言われるので、それは目下の課題です、はい。
☆本日のコピペのコピペ☆
720 名前:おたく、名無しさん? [sage] 投稿日:2008/10/21(火) 21:54:35
掲示板で女性に、二次元の娘を本気で愛してるんですがどう思いますか?って聞いたらさ。
意外なことにこんな返事がきたよ。
「私はむしろいろんな相手をとっかえひっかえするような人よりも、二次元だろうが四次元だろうが一途に気持ちを捧げる人のほうに好感を抱きます。」
こう考える女性もいるって知れて感動したよ。やっぱ人それぞれだな。
何より、一般人から見たらイタイとしか見えない自分の質問にも、
こんなに真面目に返答してくれてとても感動した。
やっぱり愛だよ、愛。最後に勝つのは。
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巻第一為政第二14
子の曰わく、君子は周して比せず、小人は比して周せず。
訳: 先生が言われた。「君子は広く親しんで一部の人におもねることはないが、小人は一部でおもねりあって広く親しまない。」
広く浅く親しむことと狭く深く親しむことは両立しえない。それは一斤のパンを厚く切れば枚数が少なくなり、薄く切れば多くなるのと同じことだ。厚く、多く切ることはできない。となればそのいずれかを選択せざるを得ないのだが、どちらかと言えば望ましいのは君子のやり方として挙げられている、広く親しむということではないだろうか。一部の人間と狭く深く親しむことは、それ以外の人間と相対的に関わらなくなるということであり、それは付き合いを限定してしまうことから必然的にその枠内でのおもねりにつながり、それが宜しくない方向へと事を運ぶ。世に起こるあらゆる不正も結局のところ、そこに端を発している。多くの人間と関わり合うことによって、一部の一方的な考え方に思想・行動を支配されることなく広く状況を認識することができ、その結果として正しいことを行うことができるようになる。
この辺りの感覚というのは、現代においては通じにくいものなのではないかと思う。友情やら愛情がもてはやされる世の中である。それは、ここで言うところの一部でのおもねりとしか自分には思われない。多少エキセントリックであるのを承知で言うが、自分は昔から「友達を大切にしましょう」といった文句が嫌いだった。簡単な話で、友達以外ならば大切にしなくて良いのか、と思われたためだ。むしろ自分が大切にしていたこと、そして今も大切にしていることは「人情」、つまり知人他人を問わぬ他者への思いやりである。前に挙げた「友達を大切にしましょう」的価値観を友情と呼ぶならば、これらは言葉こそ似ているけれども、その中身は大きく異なっている。
たとえば、友情に赤の他人は含まれない、つまるところ、友情は人情の一部でしかないのである。また、友情イコール人情ではない。人情の人は友情の人ほどに一部の親しい人間を優遇するわけには行かない。友情が一部の人間のみにもたらされるものであるのに対して人情の対象は不特定多数であり、その一人あたりの分量は相対的に少なくならざるを得ないためである。これは冒頭のパンの例を考えれば良かろう。かつ、人情においてその割り当てはそれぞれの相手への関係性の深さと反比例するものである。つまり、他人が丁重に扱われ、その一方で友人はぞんざいに扱われるということになる。
ここから分かるように、人情というのはそれによって直接的な利益をもたらすものではない。友情を大切にして特定の誰かとの親交を深めておけば、いざというときに頼りになるのかもしれないが、人情を大切にするということはそういった存在をあえて持とうとしないということである。とはいえ、それはたしかに直接的な利益をもたらすものではないにせよ、それがまったく何の利益ももたらさないというわけではない。あらゆる場面において、目の前の人間が他人である可能性は、友人である可能性よりもはるかに高い。よって、その他人を丁重に扱うということは、同様にその他人から丁重に扱われることを期待することができる。もっとも、他人との関係は友人との間にあるような個別のつながりがあるわけでなく、かつ、そういった価値観が社会に共有されているわけでもないのだから、見返りを期待できるようなものではない。しかし、そういった目の前の見返りのためだけでなく、広く社会を考えて行動することに意味がないわけではないのだ。繰り返すが、目の前の人間が他人である可能性は、友人である可能性よりもはるかに高い。その他人を大切に扱うということは、その相手に対して他人に大切にされるという経験を与えることであり、そういった経験を与えるということはその人間が自分が受けたのと同じように他人を大切に扱うという契機を与えるということである。この繰り返しによってこそ、社会への信頼感は醸成される。反対に言えば、この逆の体験の繰り返しが社会への信頼感を崩壊させる元凶となる。
今の時代ほど人情が求められている時代はないだろう。社会における相互の不信感は増すばかりである。そこに多種多様な原因があることは間違いないが、その一端を担っているのが友情、つまり「小人の一部でのおもねり」であるとわたしは考える。社会とは、どこまでも他人との共存の場である。その社会において、皆が自分の友人ばかりを大切にし、それ以外を相対的に大切にしないのであれば、世の中には小さな集団ごとの対立が生まれる一方である。そう言えば本日は誰かさんの誕生日だが、その誰かさんも言っていたではないか。汝の隣人を愛せよ、と。これは何も隣の奥さんとの不倫を推奨しているわけではない。これも同様に自分以外の全ての人間を愛せ、という教えである。結局のところ、それが西と東を問わず君子としての人間の付き合い方であり、各人がそのような生き方を努めてこそ安定した平和な社会が達成されうるということなのだろう。そして、その逆もまた然りということで今のこの現実があるということであろう。もちろんそれは簡単にできることではないけれども、少なくともそれが問題であるという認識程度は持ち合わせておきたいものだ。とりあえず、自分の場合は情の総量が足りないとよく言われるので、それは目下の課題です、はい。
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720 名前:おたく、名無しさん? [sage] 投稿日:2008/10/21(火) 21:54:35
掲示板で女性に、二次元の娘を本気で愛してるんですがどう思いますか?って聞いたらさ。
意外なことにこんな返事がきたよ。
「私はむしろいろんな相手をとっかえひっかえするような人よりも、二次元だろうが四次元だろうが一途に気持ちを捧げる人のほうに好感を抱きます。」
こう考える女性もいるって知れて感動したよ。やっぱ人それぞれだな。
何より、一般人から見たらイタイとしか見えない自分の質問にも、
こんなに真面目に返答してくれてとても感動した。
やっぱり愛だよ、愛。最後に勝つのは。
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「本日の論語」第二回。第一回はこちら。過去の記事一覧はこちら。
巻第一 為政第二 3
子の曰わく、これを道びくに政を以てし、これを斉(ととの)うるに刑を以てすれば、民免れて恥ずること無し。これを道びくに徳を以てし、これを斉(ととの)うるに礼を以てすれば、恥ありて且つ格(ただ)し。
訳: 先生が言われた。「法律などの小手先の政治で導き、刑罰で統制していくならば、人民は法の抜け道をすり抜けたとしても恥ずかしいと思わないが、道徳で導き、礼で統制していくならば、道徳的な羞恥心を持って、そのうえに正しくなる。」
礼・・・法律と対して、それほど厳しくはない慣習法的な社会規範。
この節も、現代における「論語」の存在意義をよく表している。現代において、何かが起こったときにそのたびごとに話題にのぼるのは、それを起こさないためにはどのような法律を作るか、どのような刑罰を与えるか、ということである。それは法治国家としての当然の姿であり、それが無意味というわけではない。しかし、その一方ですべてを法律にゆだねてしまうということについてのデメリットも考えなければならない。
それは、端的に言えば窮屈になるということだ。法律というのは個別の案件を想定するものではなく、ある程度の普遍性を持つものであり、それだけに杓子定規なものとならざるを得ない。すなわち、人間の感覚からどうしても乖離したものとなってしまう。けれども、そうなると何らかの具体的な案件での物事の整理を成文化したはずのものが、その具体的な案件とは無関係な場面においても意味を持つようになり、かつ、そもそもの目的とは別に、それ自体が唯一無二のルールになるということになってしまう。このように法律が現実にそぐわないものになってしまえば、それに対する信頼感も薄れる。そして、その結果、ここに述べられているように法の抜け道をすり抜けようが恥とも思わないようになってしまう。
具体的な例を挙げよう。およそ10年以上前にもうなってしまうが、少年犯罪が数件起きて大きな問題になったことがあった。成人に満たない者は、何らかの罪を犯した場合にも成人同様の処分ではなくて一定の刑の緩和がなされることになっている。これは「未成年者の人格の可塑性に着目しているため」とされる。つまり、まだまだ子どもなので、変わる可能性が残されているから、というのが本来の意図である。しかし、そのように定められていることにより、悪意を持った者によっては「未成年のうちであれば殺人を犯しても死刑にはならない」というように理解がなされるようになった。この発想には、本来の意図であった「人格の可塑性」などというものは言うに及ばず、人を殺すということについての罪の意識さえも忘れ去られてしまっている。
この例は極端であり、これについて抜け道をすり抜けようなどという輩はそれほど居ないであろうが、法律というのは必然的にこのような性質を持つ。こうした現代の当たり前に対して、「論語」が主張するのは「礼」である。礼とは、慣習法的な社会規範、その社会における人々によってある程度共有されている決まり事、とでも言えば良いだろうか。それは法律のように成文化されていないだけに、あいまいではあるが同様に柔軟でもある。それだけに現実との距離感を法律よりも保ちやすく、形骸化も相対的にはしにくい。
もちろん、今の日本のように巨大な国家の中ですべての法律を捨て去って、礼のみで統治を行うということは現実的ではないし、それがわたしの意図であるわけでもない。その言わんとするところは、法律一辺倒主義の危険性、そして、それに陥らないためのもう一つの軸としての礼の提示である。もっと偉そうに言うと、西洋的な発想の行き過ぎを抑えるための、一種のスパイスとしての東洋的発想である。
☆本日のコピペのコピペ☆
211. Posted by 2008年11月07日 23:19
体育の時間ジャージに袖を通したら
洗濯の時に母ちゃんのパンツが入ってたらしく勢い良く飛び出た
お陰で中学のときのあだ名はパンティーマジシャンだった
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巻第一 為政第二 3
子の曰わく、これを道びくに政を以てし、これを斉(ととの)うるに刑を以てすれば、民免れて恥ずること無し。これを道びくに徳を以てし、これを斉(ととの)うるに礼を以てすれば、恥ありて且つ格(ただ)し。
訳: 先生が言われた。「法律などの小手先の政治で導き、刑罰で統制していくならば、人民は法の抜け道をすり抜けたとしても恥ずかしいと思わないが、道徳で導き、礼で統制していくならば、道徳的な羞恥心を持って、そのうえに正しくなる。」
礼・・・法律と対して、それほど厳しくはない慣習法的な社会規範。
この節も、現代における「論語」の存在意義をよく表している。現代において、何かが起こったときにそのたびごとに話題にのぼるのは、それを起こさないためにはどのような法律を作るか、どのような刑罰を与えるか、ということである。それは法治国家としての当然の姿であり、それが無意味というわけではない。しかし、その一方ですべてを法律にゆだねてしまうということについてのデメリットも考えなければならない。
それは、端的に言えば窮屈になるということだ。法律というのは個別の案件を想定するものではなく、ある程度の普遍性を持つものであり、それだけに杓子定規なものとならざるを得ない。すなわち、人間の感覚からどうしても乖離したものとなってしまう。けれども、そうなると何らかの具体的な案件での物事の整理を成文化したはずのものが、その具体的な案件とは無関係な場面においても意味を持つようになり、かつ、そもそもの目的とは別に、それ自体が唯一無二のルールになるということになってしまう。このように法律が現実にそぐわないものになってしまえば、それに対する信頼感も薄れる。そして、その結果、ここに述べられているように法の抜け道をすり抜けようが恥とも思わないようになってしまう。
具体的な例を挙げよう。およそ10年以上前にもうなってしまうが、少年犯罪が数件起きて大きな問題になったことがあった。成人に満たない者は、何らかの罪を犯した場合にも成人同様の処分ではなくて一定の刑の緩和がなされることになっている。これは「未成年者の人格の可塑性に着目しているため」とされる。つまり、まだまだ子どもなので、変わる可能性が残されているから、というのが本来の意図である。しかし、そのように定められていることにより、悪意を持った者によっては「未成年のうちであれば殺人を犯しても死刑にはならない」というように理解がなされるようになった。この発想には、本来の意図であった「人格の可塑性」などというものは言うに及ばず、人を殺すということについての罪の意識さえも忘れ去られてしまっている。
この例は極端であり、これについて抜け道をすり抜けようなどという輩はそれほど居ないであろうが、法律というのは必然的にこのような性質を持つ。こうした現代の当たり前に対して、「論語」が主張するのは「礼」である。礼とは、慣習法的な社会規範、その社会における人々によってある程度共有されている決まり事、とでも言えば良いだろうか。それは法律のように成文化されていないだけに、あいまいではあるが同様に柔軟でもある。それだけに現実との距離感を法律よりも保ちやすく、形骸化も相対的にはしにくい。
もちろん、今の日本のように巨大な国家の中ですべての法律を捨て去って、礼のみで統治を行うということは現実的ではないし、それがわたしの意図であるわけでもない。その言わんとするところは、法律一辺倒主義の危険性、そして、それに陥らないためのもう一つの軸としての礼の提示である。もっと偉そうに言うと、西洋的な発想の行き過ぎを抑えるための、一種のスパイスとしての東洋的発想である。
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211. Posted by 2008年11月07日 23:19
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