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ロリコン党と民主主義
ロリコン党を知っておられるだろうか。わたしは最近知ったのだが、ちょっと前に一部地域で有名になっていたという。その正式名称は「近隣愛、自由、多様性」党(Naastenliefde, vrijheld en Diversiteit)、オランダで結成された政党である。なぜ、この政党がロリコン党という異名を持つのかというと、その掲げる内容がまさにその名の通りであるためである。その掲げる政策とは、
・ 自由意思による性行為の同意年齢の制限を16歳から12歳に引き下げ。
・ 日中のアダルト番組放送を許可
・ ポルノ作品への出演年齢の制限を12歳まで引き下げ など

「10年前にはチャイルドポルノはタブーではなかったが、ベルギーのDutroux事件後、これが大きなタブーとなった。我々は小児愛者たちの自由と権利を主張したい。」と党首のファン・デン・ベルグ氏は言っているそうだ。本文 → 「小児性愛者が政党を旗揚げ、そのスゴい公約とは・・・=オランダ」

これらの政策を見て嫌な気分になる方もいらっしゃるであろう。オランダ国民も同様であるらしい。けれども、わたしは彼らのその勇気を買いたい。自分の思うところを主張するという自由は認められている。そして彼らは政党を立ち上げ、その主張を民意に問おうとしているのだ。この行為は議会制民主主義の世の中において、もっとも正当な主張の仕方である。それは、出来の悪いロビイングでしかない市民運動などとは一線を画する。それを国民が望めば叶うだろう、望まなければ叶わぬだろう。何と健全なことだろうか。よって、その主張する内容については何とも言いがたいものの、わたしはその行動力と熱意には敬服している。ま、無理だろうが。

現代のわたしたちの価値観で言えば10代前半の異性と交際、性行為に及ぶことははばかられることである。しかし、これまでの歴史を考えてみると必ずしもそうではないことに気付くことができるだろう。たとえば江戸時代における平均結婚年齢は20歳前後であったという。現代のそれは女性28歳で男性30歳程度、およそ10歳以上もずれている。これはあくまで平均であり、10代半ばで結婚ということも十分に考えられる。このように現代の当たり前の部分は、必ずしもいつの時代においても当たり前ではない。
あるいはこういった見方もあろう。ロリコンの人間は現実に少女暴行などの罪を捕まったとしても反省せずに繰り返すなど異常な人間が多い、よって認められないと。確かにこういった事件は頻発しているし、それは絶対に許されるものでもない。けれども、異性を求める気持ちというのは誰しも持っている。そして、残念なことにこのような性的嗜好を持つ方々はそれを発散させる場が現実としてない。そのために衝動的に目の前の少年少女を襲うという犯行に及ぶとも考えられはしないだろうか。風俗産業が性犯罪を減少させているということはよく言われていることである。たとえば戦争中、軍の居留地近くには慰安所が設けられていた。これは兵隊が敵国民を強姦するなどの行為に及ばないようにするためであったと言われている。それと同様に考えるならば、小児愛性犯罪者を防止するという目的のために、そういったものに合法的に触れられる場なりメディアなりを管理の下に許可するということが考えられてもおかしくはないはずである。

もちろん、そこに誰を出させるのか、そこに出演させるのには本人の意思だけで良いのか保護者の了承を得るべきか、親や保護者の勝手な判断で売られるようなことが起こらないようにするにはどうするべきか、など問題は言うまでもなく数多い。しかし、もしそれらが解決され、合法的な手段で法律改正などが可能になるだけの世論があるのであれば、あってはならないことでもないとわたしは思う。少なくとも、その可能性を消してしまおうとするのは言論弾圧と言わざるを得ない。かつ、彼らの行動は行動それ自体はともかくとして、その目的達成のための手段として政党を立ち上げるという彼らの態度を賞賛せぬわけにはいかない。


最後にとりあえず言っておくが、わたしはロリコン党員ではない。大人の女性が大好きであるので、そこのところはよろしく。念のため。


それと最後に有益な情報をひとつ。Chakuwikiというサイトである。ご存知の方もおられるかもしれないが、「バカが、バカなテーマで、バカな情報を集める場」をテーマにいろいろな情報が集められている。今回のネタを書くためにオランダを調べている際に発見した。各地のおもしろネタがいろいろと見れるようで、オランダのページには今回のロリコン党が記載されていた。まだ十分には探検していないので、今後また扱ってみたい。


☆本日のコピペのコピペ☆
変態と罵ることは簡単である。
ロリコンのどこが悪い?
ロリコンが格好悪いとでも思ってんの?
そういう考え方のほうがよっぽど格好悪いよ。
あんまりロリコンをバカにすんなよ。
同い年の女にもてないからとかじゃなくロリコンは決して悪いことじゃないってことが言いたいって事。なんかよく「ロリコンキモイ」っていう犯罪者にしたような書き込みを見るから本当に腹がたつ。

子供の一人でも襲ってないから魅力がわからないんだよ。


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中国とどう対峙するか。
前回挙げた問題は、中国という国家が国民の人権を蹂躙するような行為を行っているということ、少なくとも行っているという疑惑を持たれるような国家であることを再認識させるものとなった。もちろん、こういったことは初めてではないはずだ。たまたま今回自分がそれに気付いただけであろう。それではなぜ、こういった非人道的なことがまかり通ってしまうのだろうか。そう考えると、そこにはやはり共産党による一党独裁政治の弊害が大きいのではないかと思わざるを得ない。中国の場合は北朝鮮のように一人の独裁者という形式ではなく共産党の支配という形を取っているだけに、独裁という負のイメージはそれほど強くない。けれども結局はどちらも独裁政権には変わりない。(注1)そして、不透明ではありつつもことさらに悪くはない中国に対するイメージも、メディア規制によって負の部分が露呈することを抑えることで可能になっているイメージに過ぎないのではないか(注2)。

事実、今も本国では厳しい言論統制が行われているという。旧来メディアは言うに及ばず、インターネットの世界においても非常に厳しい管理下にあるという。これは去年の情報だが、その内実を知らしめる興味深いニュースを見つけたので重要な部分を紹介しておきたい。(本文のURLはこちら「巧妙な中国政府のネット検閲、米の調査で明らかに」


「米国の研究機関が中国政府のインターネット統制について調べたレポートが14日(米国時間)に発表された。それによると、同国政府は様々なレベルで手段を講じ、体制を批判する言説のみを正確にブロックしており、その手法はますます洗練されつつある」。

「精度が高まったことにより、中国政府のフィルターは、チベット一般に関する内容をそのまま通し、チベット独立関連の内容だけをブロックできるほどの機能を持つようになった。同様に中国政府は法輪功やダライ・ラマ、天安門事件など、要注意と見なされるトピックに関する議論を効果的に取り締まっている」。「今中国政府の検閲には多数の政府機関と数千人もの公務員や民間企業の従業員が関わっており、その範囲も、長距離にわたってデータを運ぶ基幹ネットワークから、多くの中国国民がインターネットにアクセスするネットカフェまで、あらゆるレベルに及ぶ」。

「広範にわたる検閲活動により、中国政府によるフィルタリング・ツールはウェブ日記やブログといった新しい形態のメディアにも対応していることが明らかになった」。また、「中国の検閲は、いくつかのサーチエンジンをはじめとする複数の箇所で行なわれており、禁止コンテンツの代わりに警告が表示されるのではなく、コンテンツそのものが削除される」という。「フィルタリングの多くはバックボーンで行なわれるが、個々のインターネット・サービス・プロバイダー(ISP)でもさらにブロックされることがある。ネットカフェや掲示板運営者も、当局からの処罰を恐れて自主的にコンテンツの統制を行なっている。」


このように中国政府はインターネットにまで強固な規制を敷いている。それによって国民は天安門事件などの政府に都合の悪い情報を知ることができない。中国の検索エンジンで調べると、これらの言葉が含まれる記事は表示されないという。かつその情報を流す者、さらにはプロバイダやネットカフェまでを処罰するという連帯責任によって、ネット内でその手の話題の議論が起こることすらも未然に防ごうとしている。結果として国民は新聞やテレビはもちろん、インターネットにおいても、政府によって検閲された内容しか知ることができないという状態である。さらに、自由になんらかの活動を起こすこともできない。都合が悪いと政府当局に認識されれば、今回の事件のようにいとも簡単に逮捕されてしまう。それが認められてしまう世の中なのである。(注3)

これまで自分としては中国というものをひと括りにして考えていたけれども、それは適当ではなかったようだ。中国共産党、つまり政府は憎むべきとして変わらないけれども、それに支配されている国民の側には一定の同情を感じざるを得ない。いわゆる反日運動というものも、直接指揮をするわけではないにせよ政府主導で行われている。中国の歴史教育では国定教科書により日本軍の残虐な行為をこれでもかと教えられるという。それを事実として教えられれば、その枠組みで物事を考えるようになるのは致し方ないことだろう。しかも、中国においてはそれらと比較対照できるだけの情報を得ることができない。彼らはその被害者とも言えよう。(注4)

さて、この中国に対して日本はどのように関わっていくべきか。何よりまず為されるべきは、現在くすぶっているこの問題に参加することだろう。これが事実であるとすれば、明らかな人権弾圧であり、そこには人権を守るという文句を許さない大義がある。さらに、日本が一人立ち上がらなければならないわけでもない。他国はすでに比べようがないほどに関心を示しており、実際に調査団を派遣しているような国もある。この状況下で何もしないというのは、それを認めたということと取られても仕方ない。いち早くこれらの仲間と協力して、人権尊重の御旗の下にその内実を徹底的に明らかにするべきである。そしてマスゴミは国民からあきれられないうちに偏向報道をさっさと改めるべきである。

それによって中国による反発はあるであろうが、長期的な視点から考えて何らかのアクションを起こしておく必要があるだろう。このような国家体制の中国が、これから何の問題もなく発展していくことができるとは思えない。高氏拘束事件については中国の軍部が釈放を求めた声明を発表、果たされない場合は軍事クーデターのおそれもあり、とのことである(ただし、匿名のソースなので信憑性は微妙)。今の体制が崩れ、新たな体制が生まれた場合、以前の国家体制にべったりだった国家がどのような待遇、関係になるかは考えられて然るべき点であろう。財界のお偉方も目先の利益ばかりに囚われていては、大局を誤ることになりかねない。国益という言葉を出すのならば、もっと広い視野でものを言ってほしいものである。

最後に、日本の自称人権派に告ぐ。日本を糾弾するのも結構だが、人権というものを真に考えておられるのであれば中共のこの人権弾圧事件にも目を向けることをお勧めする。これは過去のことではない、まさに現実にごく最近行われた人権無視の蛮行である。あなたがたの幅広いネットワークで、ぜひ従軍慰安婦や南京大虐殺のときのように世論を沸かせてくれることを心の底から期待している。


注1
もちろん、国民の中国に対するイメージが良いとは思えない。しかし、そのイメージの悪さはあくまで靖国神社や戦後補償などにおける日本への干渉に対してのイメージでしかなく、中国共産党政府の非人道的行為に対して、というものはこれまで少なかったのではないか。この点については中国側のメディア規制という要因もあるが、日本側の自主的な規制も大きな要因であるように思われる。図らずも最近の中国の強硬姿勢によって反中意識が拡大し、それら中国内部の問題にも注意が向いて、その化けの皮は剥がれつつあるのだが。

注2
わたしたち日本人は金正日率いる北朝鮮の権力一極集中にばかり目を奪われがちであるが、中国を牛耳る中国共産党にも同様の視点で臨まねばならないと切に思う。北朝鮮の後ろから支えているのは中国であるとはよく言われることが、自国の体制批判の盾として北朝鮮を生き長らえさせているのではないかと勘繰りたくもなる。北朝鮮の体制を批判するのはもちろんだが、中国も忘れてはならないだろう。

注3
中国におけるネット検閲については大手インターネット企業側の倫理欠如という問題も指摘されている。
・中国で人権侵害を批判したジャーナリスト逮捕にYahooが警察および司法当局に協力
・Microsoftは、中国政府の各当局から提供されたブラックリストを使って、ブログツール「MSN Spaces」中国語版の検閲、中国語版MSN Spacesでは、「民主主義」だけでなく「資本主義」という言葉さえ入力できない
・Cisco Systemsは中国のセキュリティサービスにインターネットユーザーの監視を可能にする機器を提供。
・Googleは昨年よりGoogle News Chinaから「体制転覆を目的とした」ニュースソースを全て削除することに合意

これらの企業は口を揃えて「われわれは中国の法律に従っているだけだ」とうそぶいているそうである。もっとも、言論の自由の擁護団体「国境なき記者団(Reporters Without Borders:RWB)」などによる活動により、問題としては認知されつつあるようである。(本文はこちら「中国のネット検閲をめぐって--『国境なき記者団』の考え」

注4
この政策の目的は、外に敵を作ることで内部での団結の輪を強固にして、かつ政府に批判が集中しないようにすることにあると言われている。であるから、その主張はきわめて政治的色彩を帯びたものになっており、問題解決を真に求めるようなものではありえない。贖罪意識(現実には死人に鞭打って自分だけが救われた気になるという実に都合の良い考えである)から彼らの言い分を真に受けて賛同する者は多い。けれども、その政府の主張を真偽も確かめずに賛同するということはそれ自体として当然に問題であるが、中国の国民をまともな歴史観から目を背けさせる教育政策を暗に支持するという点においても大いに問題である。


☆本日のコピペのコピペ☆
東アジア各国の代表4人が集まって、互いに誰が一番存在感があるかを 勝負しようという事になった。
北朝鮮の将軍は、大量の軍事予算を計上し、核ミサイルを配備した。
韓国の大統領は、北朝鮮にエネルギーと食料を大量に支援すると発表した。
中国の首席は、予算と人材を惜しげなく注ぎ込み有人宇宙船を打ち上げた。
一方、日本の首相は神社にコイン一枚投げ込んだ。


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弁護士拘束&臓器狩りin中国
中国の人権弁護士高智晟氏を中共公安当局が強制連行。
中共が法輪功学習者数千人を監禁、しかも臓器を強制摘出して移植に使用。

こうしたニュースを知っておられる方はいらっしゃるであろうか。おそらくほとんどおられないのではないかと思われる。Googleのニュース検索により弁護士高氏の名前を検索したが、出てきたのはたったの3件。日本の大手での扱いは朝日のAsahi.comのみ。しかし、それも非常に表面的な書き方であり、続報もない。法輪功信者の臓器狩りの方はまったく引っかからない。
この報道をわたしが見たのは「大紀元」というサイトであった。アメリカを始め世界30カ国にグループ社を持つ中国の反体制メディアとされている。Wikipediaには以下のような記述がある。「中国政府に徹底弾圧を受けている法輪功が事実上の母体とされるためか(機関紙か?)、時折、信頼性の低い記事も見受けられる一方で、中国政府の腐敗や人権弾圧に関する記事では他に先駆けてスクープを出す場合もある(しかし各国の主要メディアが引用する事は滅多にない)。」(wikipediaより引用)よって、その内容が必ずしも正しいとは限らないようだ。

しかし、この件について他の国がどのような対応かというと、それはまったく異なっているようなのだ。アメリカでは米国務院は18日、同氏の拘束について、既に北京のアメリカ大使館を通して、中共当局に「強い抗議を出した」と表明。かつ、米議会上下院は今年4月、全数投票で中国の人権擁護活動の代表人物高智晟氏を支持する決議案を可決したという。欧州議会の副議長は取材によると「『中共政権は今、その独特な隠蔽体質故、生きている法輪功学習者の臓器を強制摘出するとの告発に反応を示している』と指摘、高弁護士の逮捕や、(反中共政権の)香港立法会議員・何俊仁氏が襲撃される事件は、皆中共による反応の一環であると述べた」とのことだ。
臓器狩りについてはカナダや韓国などが独立の調査団を立ち上げており、オーストラリアでも調査団の受け入れを中国に要求。オーストラリアでは最近この臓器狩り事件を扱った特集番組まで報道されたという。

にもかかわらず、日本では報道すらされずの状態である。これまでこのブログでメディア批判を行ってきたが、まさにこういうことなのだ。中国偏向報道ということはよく言われることではある。それが何のためであるのかという点ははっきりしていないし、自分自身も詳しく認識しているわけではない。しかしそれが何のためであるにせよ、重要なのは現実としてこのような中国関連の報道が行われていないという一点である。日本人はこういったメディアの欺瞞を許してはならない。この件については今後も扱い、動向を追っていくつもりである。

なお、今回の内容はほぼすべて「大紀元」からの引用である。先述のようにそれほど信頼のおけるメディアでないし、何より被害者側ということで、そのまま信じて良いかどうかは現時点ではまだ分からない。比較しようにもその対象がないのでとりあえず書いたけれども、正しいとは限らないこと、今後調べていく中でこの内容も改変することがあるかもしれないことを重ねて断っておく。また、何か情報をお持ちの方はぜひ報告していただきたい。


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プレステとMeと、思いやり。
弱者と接することで、人はやさしくなれる。

これは教員採用試験での集団討論対策で、模範解答として記載されていたものである。質問は「大学時代で頑張ったことは何か、それで学んだことは」といったものであったかと思う。これは、障害を持っている方などと接することによって、やさしくなることができました、ということらしい。あなたはこの言葉を理解できるだろうか。分かる、と言われてしまっては身も蓋もないけれども、わたしはどうもこの言葉が理解できなかったのだ。何となくながら分かった今となっては、なぜ分からなかったのかと言われても分からない。とにかく、その疑問は試験勉強をしている間も、それ以後も残り続けていたのだった。

その疑問が晴れたのは突然のことで、採用試験が終わって数年ぶりにプレステ2というかテレビゲームをやっていたときであった。わたしは兄とボンバーマンに興じていた。ボンバーマンとはその名の通り「爆弾男」の意であり、爆弾でもってお互いに殺戮し合うという男と男の真剣勝負である。ファミコン黎明期からの歴史あるタイトルであり、今も毎年のように新作が出ている息の長いシリーズである。基本の部分はファミコンのときから変わっていないのだが、それでも出続けるのは衰退著しい製作元ハドソンの台所事情というところがあろう。とはいえ誰でもすぐにルールを理解して楽しめて、しかも上達すれば上達したなりに美しく敵を殺戮するなどという楽しみ方もできる良作なので、それなりに売れているようだ。それだけに出さなきゃハドソン!(注1)との具合にシリーズ出まくりの今作である。というか、桃太郎伝説の新作出してくれよ、ハドソン。
そんなことはまったく本筋とは関係がない。とりあえずボンバーマンをやっていたわけだ。途中で兄は用事か何かで外出の準備を始めたので、その後は一人でコンピュータ相手と命がけの戦いを繰り広げていた。それにいい加減に疲れてきて終えようかと思ったとき、あることに気付いた。

「これってどうやって終了させるんやっけ??」

オープニングのメニュー画面のどこを見ても「終了」などという項目は見つからない。ここで、日頃からゲーム機を扱っている方は突っ込みたくなるだろうが、しばしお待ちいただきたい。わたしは数年ぶりにゲーム機というものに触れ、それまではパソコン一辺倒であった。よって、「終了」の動作とは画面で選択して行うものであるという固定観念がガッチリと生じていたのだった。たまらず、出掛けようとしていた兄を引きとめて、終了の仕方を聞く。すると、「電源ボタンを長押ししろ」と言う。

「それって強制終了ぢゃん!」

この時点でもまだ自分はパソコンの感覚が抜けていなかった。ご存知の通り、パソコンで電源ボタン長押しは「強制終了」であり、調子が悪くなったときの最終手段である。電源を切る準備が整わぬままに強制的に電源を落とすのであるから、パソコンへのダメージは免れない。特に、わたしにはこれにカカオ99%チョコ並に苦い思い出がある。
それは最初に手に入れたパソコンとの格闘の日々である。時は2001年、OSはかの悪名高きWindownsMe。何もいじっていない状態でもメチャクチャに不安定で、頻繁に起動失敗、フリーズを起こすというあんまりな仕様。その不安定さのあまり、ドジっ娘に萌え変換させて脳内での問題解決を図ろうとする一部の人間(注2)まで生み出したほどの代物である。それは初心者にパソコンのデリケートさを植えつけるには十分であった。そのMeで強制終了などしようものなら、次回起動時には画面全体が夏の海のように真っ青な「OSがうまく立ち上がりませんでした」でお出迎え、そこで再起動するとセーフモードで立ち上がり、そこでエラーチェックなどが行われてさらに再起動されて、ようやく再びまともに立ち上がるというコンボを食らう羽目になる。しかもそのダメージは蓄積されていき(あくまで印象に過ぎないが)一度そうなれば次も起こりやすくなるというスパイラルに陥ることになる。まさに強制終了は地獄への片道切符と言っても過言ではなかったのだ。いや、マジで。
今ではパソコンもXpに進化して、不安定さに悩むことはなくなった。しかし、強制終了などする機会がないだけに、強制終了というその行為への恐怖は癒えておらず、それは万策尽きた後の最終手段であり続けていたのであった。よって、わたしは堪らず聞いてしまった。「他の手段は?」今思えば、正気の沙汰かと思う。兄は呆れたように、


「スーファミとかもそうだっただろ?」

  ・
  ・
  ・

この言葉で自分はようやく現実世界に戻ってきた心地がした。たしかにこれまでゲーム機では強制終了、というか電源プッシュが当たり前であった。当時としてはそれが当たり前で、そんな配慮など思ったこともなかった。そしてそう思い至った瞬間、わたしはもう一つのことにも気付いたのだった。そう、冒頭の言葉の意味である。

「弱者と接することで、人はやさしくなれる」

弱者とはパソコン(特にMe)である。その弱者と接するなかで、わたしはその弱者を配慮する心、さらにはそこからそれ以外のものに対してまで配慮することのできる、やさしい心を持つことができていたのだった。

この瞬間、頭の中には歴代のゲーム機たちがフラッシュバックしていた。ファミコン、ゲームボーイ、スーファミ、プレステ、ゲームボーイカラー。機器に対する配慮などは、これまでさっぱりなかった。丁重に扱ってきたのはバッテリーバックアップのRPGくらいのものであった(特にドラクエ3)。そんなお前たちに、自分は気付いてやることができなかった。すまない、お前たち。おそらく家のどこかに残っているだろうから、久々に遊んでみよう。そして、今度はやさしくそっと電源を切ってやろう。

前より少しやさしくなった、そんな自分に気付くことができた、夏のある暑い昼下がりのことであった。


注1 出さなきゃハドソン!
「やらなきゃハドソン!」というこの会社のキャッチコピーを改変。何のことか分からないだろうから説明しておくが、「ハドソン」の「ソン」を「損」とかけており、「やらないと損ですよ!」の意である(おそらく)。「そうはい神崎」並に駄目コピーだと思われるが、同じように嘲笑とともに用いられることがある。

注2
「OSたん」で検索するとwikipediaでやたらと詳しい説明を読むことができる。これを書くにあたって調べてみたところ、Flashやアニメまで作られているらしい。日本の萌え文化の深淵を見た心地である。ちなみに「OS-tan」として、本家wikipediaの方にも掲載されている。恐るべし、オタク文化。


☆本日のコピペのコピペ☆
307 名前:名無しさん@明日があるさ 投稿日:2006/04/25(火) 15:48:11
易しいことから学ばせようと、
新人のおにゃのこに簡単な仕事振ったら
そのくらい自分でやって下さいよ
とキレられた

死にたい

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ファミレスとスーパー・後編
前回、前々回からの続きの一応完結編?です。

その最大の理由は、国民のより豊かな生活のためである。現状を見ると、日本は不況を脱しつつある。しかし、そこで目指しているのは再び経済発展の道である。わたしはこれに疑問を感じざるを得ないのだ。もちろん、それによって世界に冠たる豊かさを享受できていることは間違いない。けれども、これ以上の経済発展がすべての国民に幸福をもたらすとは限らない。雇用者をめぐる環境はこれまでにないほどに悪化してきている。よく言われるように、正規雇用者を減らしてアルバイト・契約社員を使用することで成り立っているのが今の成長である。それは今の発展に組み込まれた形態であり、この発展が進むほどにその格差は広がるばかりで、いわゆる勝ち組と負け組を生み出す構造になってしまっている。
その代わりとして、わたしの主張するのが政治の発展なのである。政治とは、統治組織の活動内容に関して利害関係者間で行われる調整や交渉等の活動、またそのような活動によって構成される過程を指す(Wikipediaより)。言うなればそれは国民全体から集められた税金をどのように使うかということであり、それは最低限の生活を維持するためのインフラ、社会保障制度などを整備する、再分配の方法である。この部分の機能がこれまで十分に働いてきたと考える人間はいないだろう。政府の仕事と言えば非効率と相場が決まっている。この部分を発展させることで、さらなる経済成長を望まずとも国民の生活は豊かになるのではないか。このように考えるのである。先述のように、国民の政治参加はあまりにもなおざりにされてきた。けれども、それだけに十分に発展可能性がある。

そのために国民のするべきことは、まず厳しい目で政治家を監視することである。商品がどのように作られるかをもう一度思い出していただきたい。消費者と生産者との綱引きによってこそ、良い商品は生まれる。消費者の側がその質に注意を払うことによって初めて、生産者はその質を高めざるを得なくなる。国民がどの政治家がどのようなことを主張しているのかを知り、その優れた者が選択されることにより、徐々にこれまでのような「地元に利権を持ってくることができるかどうか」、という能力でなく、政治家としての実務能力が争点となるようになるであろう。
それだけでは十分でない。一人一人が自ら考え、自らの意見を持つことが求められる。それは意味のある批判を行うために不可欠である。批判ならば誰でもできる。そして、それは何の意味も為さない。明確なビジョンなしに批判するということは、計画もなしにのこぎりやハンマーを振るうようなものだ。自分が一人の政治家となったならばどのように行動するか、という視点から考える。そして、その意見を選挙の場において投票という形で表す。これがまっとうな国民の政治へのかかわり方であろう。


さて、三回に渡って色々と述べてきた。自分の考えているところのコア部分をおぼろげながらも書くことができ、わたしの立ち位置というものが何となくでも理解できたかと思う。わたしの主張でよく聞くものと異なっているのは今回書いた中で言えば、既存のメディア批判とインターネット擁護、政府=権力=悪でなく、その責任はそれに直接的にせよ間接的にせよ賛同してきた国民の側にあると考えている点であろうか。ずいぶんと走り書きしてきたので、細かな点については触れられていない。それらは暇なときにでも読み直して、気付いたときに随時補足していきたい。何を言っているのか分からない点も多々あったと思われるので、その点はお聞かせ願えれば光栄である。

世界のさまざまな国家と同様に日本はさまざまな失敗を経て、国民主権というそれなりに望ましい統治の手法を手に入れた。それは独裁者による圧政から開放したが、その運営・維持は国民の政治参加を前提としている。それは現在のシステム上、仕方のないことである。それを望まぬならば独裁者の擁立、つまり幕府でも開いて将軍様に独裁政権を築いてもらうか、もしくは王政復古で天皇親政の道しかあるまい。それを望まないのであれば、自分の身の回りのことばかりでなく、一人の国民として社会のこと政治のことにも関心を持つ必要がある。一人一人のその心がけによって、ひとつの国は支えられているのである。福沢は「愚民の上に苛(から)き政府あれば、良民の上には良き政府ある」という言葉を残している。要するに国民が愚かであれば政府は強権的な統治をせざるを得ない(注1)が、国民が賢くなれば政府もまた賢くなり、より良い政府が生まれるということである。つまるところ、良い政府を望むのならば、国民が学ばなければならないということである。最初に述べたように、若者を中心にその兆候は見られる。こうした声が世の多数派となり、この声に反映された政治家が現れるとき、日本は変わることができるとわたしは信じている。そして、これからの若者に大きな期待をしている。

(注1)
当時としては統治者に責任感があったためであろう、国民が愚かであれば強権的な統治をせざるを得ないと彼は述べている。今は大衆迎合で無責任な統治者が多いためか、国民の愚かさが政治家に伝播しており「愚民の上に愚政府あり」の状況である。この点は現代と多少状況が異なっている。ちなみにこの言葉は「学問のすすめ」の初編より引用。

☆本日のコピペのコピペ☆
633 名前:C.N.:名無したん [sage] 投稿日:2006/05/08(月) 08:08:36 ID:
ポッキーゲームってポッキーを右の鼻の穴から入れて
左の鼻の穴から出すっていうアレ?

634 名前:C.N.:名無したん [sage] 投稿日:2006/05/08(月) 10:28:56 ID:
>>633
お前今までそんなポッキーゲームしてたのか。

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ファミレスとスーパー・中編
前回の続き。

多くの日本国民は、新聞やテレビからの情報を淡々と受け入れていた。そしてその結果として、ファミレスでの食事で体を蝕まれるように、間違った認識を植えつけられていた。

こういった現状を打ち破ったのがインターネットであった。それは居ながらにして世界中の数限りない情報を手に入れることを可能にした。その誕生によって、旧来メディアの弊害が明らかにされるようになったのだ。国民はさまざまな情報を容易に比較することができるようになり、しかもそれはそれぞれの個人が発信することも可能にした。これにより、新聞やテレビはこれまでの自己中心的な報道の内実を暴かれるようになった。そしてそれに不信感を覚えた人間たちは自分たちで真実を掴み取ろうという気概を持つようになった。ファミレスの弊害が明らかにされるようになり、自炊の気運が高まったと言えよう。これこそは、わたしが友人たちに会って感じたものであった。

ファミレスとスーパーのたとえで考えれば容易に理解できるように、情報収集を他人任せにするということは真実を見誤らせるおそれを持っている。その危険性が多少なれども分かっていただけたかもしれない。残念ながら、これまでの多数の国民の社会への関心を持つ手段はファミレス的であった。とはいえ、わたしがここまで述べたことは、これまでの世代にそれができなかったことを一方的に非難しようというわけではない。すべてのことをすべて、完璧に成し遂げることは不可能である。それらの人々は、日本に経済的な成功をもたらした。それこそは戦後の世代が残してくれた偉大な功績である。その反面として、いわば政治の部分での成熟というのはおざなりにされてきたに過ぎない。

その次の世代として、そこに甘んじているわけにはいかない。この意識の転換を図ること、「ファミレスからスーパーへのシフト」。単純化して言えば「経済から政治へのシフト」。これがわたしの考える、これからの日本のあるべきビジョンである。国民が自分の仕事や身の回りのことばかりではなくて、より社会のこと、世界のことについて興味関心を持ち、知ろうという意識を持つようになること。より発展させて言えば、どのようにして国民に近代的な政治意識を根付かせるか。これは明治維新から今日に至るまで、日本の知識人のひとつの大きな課題であったように思う。わたしのこれまで読んできた中でも、福沢諭吉や丸山真男は、それぞれ明治維新と敗戦後という日本の大きな節目の時期に、ほぼ同様のことを主張している。しかし現状を見るに、それが果たされたとは到底思われない。それを今度こそ成し遂げようではないかというのが、わたしの強い思いである。

また、続きます。

☆本日のコピペのコピペ☆
733 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:03/09/03 17:50
チキンラーメンを使った朝ごはんのおいしい食べ方

1、チキンラーメンを封を切らずに麺を砕く(大きさはお好みにより様々でOK)
2、ご飯を炊く
3、ご飯に生卵をかけ、醤油を少々入れてかき混ぜる。
4、食す。ウマー

734 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:03/09/03 17:54
>>733
粉々にしたチキソラーメソは、どうするんだ??

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ファミレスとスーパー・前編
ずいぶんと長いこと、地元に滞在している。これは大学に入ってからで考えると最長である。そして、それまではもっとも長いこと帰っていなかった。およそ2年ぶりではなかろうか。というわけで、試験を受けるのが第一の目的であるものの、滞在中には多くのこれまでの友人と出会う機会があった。会う人ほぼすべてが2、3年ぶり、最長では10年ぶりの人までおり、しばしの懐かしい話で盛り上がった。

話していて感じたのは、みんながわりと世の中のことについて考えているということである。中学高校でのお馬鹿っぷりが目に焼きついていて、そのギャップからそう感じるだけなのかもしれないが、そのように感じられたのだ。ニュースの受け売りではなく、それを自分なりに消化して、足りない部分を補って、自分の意見として述べることができる。その主張するところが必ずしも一致するわけではないが、議論することはできる。そして、その認識のギャップによって、お互いに内容を深く理解することができる。わたしは前回述べた面接、そして日常会話も苦手だがこういった話題となると話は別である。しかも、その相手が気心の知れた面々であればなおさらである。

その一番の特徴は、旧来のメディアであるニュース・新聞を信用していない点である。インターネットに代表される新しいメディアによってその情報を相対化し、それが必ずしも正しいとは限らないということを理解している。これは大変に重要なことであると思うので、例えを用いつつ説明を試みる。

ニュース・新聞はあくまで営利企業が商売として行っているものである。それは例えるならばファミレスである。それを見れば情報は簡単に手に入る。しかし、それがどのように作られたのか、どんな材料なのかなどはさっぱり知らされることがない。これに対して、インターネットはスーパーマーケットであり、あらゆるものが揃っている。ファミレス以下の怪しい惣菜や添加物てんこ盛りの食材がある一方で、しっかりと産地が分かる新鮮な食材も存在する。一番の特徴はその品揃えである。消費者は多様な商品群の中から、ひとつひとつの商品を比較しながら選択することができる。何かを食べるとなれば、そこから食材を選んで作ることになる。手間はかかるけれども、その本人の腕次第では安全で、おいしい食事が可能になる。この「腕次第」というのがミソで、それがなければむしろ弊害は大きい。ネット上のちょっとした記事のみで分かった気になるのは、カップラーメンをすするようなものである。この部分がインターネットの功罪といったところであろう。一部の人間が真実に近づくことに寄与したが、それは大量の偏狭者をも生み出した。それはネット上での嫌韓ブームを見れば明らかだろう。何でもかんでも朝鮮人のせい。それは朝鮮人の「すべては日帝、米帝の仕業!」と言っているのとちっとも変わらない。彼らの所業が、彼らの批判する人間の行動とどれほど違うのかと思わざるを得ない。

この例えで言えば、これまでの多くの日本人はファミレス中毒であった。出されるものを疑うこともなく淡々と食していた。ここでその多くが見誤ったのは、それが必ずしも正しい情報を流すとは限らないという点である。しょせん儲けのためにやっていることであるし、自分に都合の悪いことはやろうとしない。ファミレスが激安食材に添加物山盛りで生産コストを下げて利潤をあげていることを考えれば良いだろう。こういった点があったにもかかわらず、消費者はそれを信じて受け入れたのだった。これが最大の不幸であり、大きな間違いであった。消費者と生産者との綱引きによってこそ、良い商品は生まれる。消費者はそれを自ら止めてしまったのである。消費者が最低限満足するレベルまで質を落とすことが、合理化というやつだ。事実とは異なる報道がさも当然であるかのように報道され、常識となるまでに定着していった。この最たるものは戦前の日本軍の侵略行為に関してであろう。今回は詳しく述べないが、この手の情報は「日本軍 偏向報道 新聞」などのキーワードで検索すれば大量に出てくるので見てほしい。最近の靖国の問題がこじれているのも以前述べたように、旧来メディアによる偏向報道によるところが大きい。

続きます。


☆本日のコピペのコピペ☆
138 名前:番組の途中ですが名無しです [] 投稿日:2005/09/24(土) 20:32:43 ID:qH/dsomG0
俺はお湯だけで作れるチキンラーメンが大好きだ。
どのくらい好きかというと、チキンラーメンがない時は、
お湯だけ沸かして、お湯だけ飲むほどチキンラーメンが大好きだ。


142 名前:番組の途中ですが名無しです [] 投稿日:2005/09/24(土) 20:48:05 ID:tTzlEY8d0
>>138
お前がすきなのはお湯じゃないのか


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ビックカメラの人だかり
面接を受けてきた。家庭教師派遣業。「低価格でより良いサービス」を理念として現在拡大中の、設立5年足らずの新しい企業である。面接の方は一対一で、アルバイトの面接か何かのようだった。あくまで最初の面接ということかもしれないが、結果は郵送で送るか電話で行うなどと言っていた。どうなんだろう。それと面接をしていた人はちっともメモを取っていなかったのだが、大丈夫なんだろうかと。いくつかの疑問はあるものの、とにかく終わった。後は結果を待つばかりである。

しかし、やはり一対一だと緊張せずに済む。どうも自分は面接の雰囲気が苦手である。もっとも、あれに慣れていて好きだなどという変態はおらぬだろうが。これには面接への不慣れということが挙げられると思う。これまでの二年間、わたしは公務員志望で民間企業は一社も受けていない。民間志望の人間の数たるや恐ろしいのであるから、そこでの差が生まれることは想像に難くない。さらに、自分はそれほどしゃべるのが得意ではない。そのために面接という場に置かれてしゃべらされるともう、訳が分からなくなってしまうのである。

実は、これを最近頻繁に更新しているのは、この「しゃべれない」という現実へのリハビリの一環でもある。これまでの自分は文章を書くのに大変な時間がかかっており、それが以前のブログのあの体たらくにつながっていた。この「すばやく書けない」ということは「しゃべれない」ということと、アウトプットができないという点で関係しているように思われる。そこから、自分の考えていることをすばやく文章にするということは、しゃべれるようになることと多少なりとも関連があるのではないかと思ったのである。

ちなみに、他にも地味な努力を続けている。やっているのは脳のトレーニング。携帯のアプリで発見し、毎日計算に励んでいる。そのタイトルは、「脳を鍛えて『いったいどうなん?まぁとりあえずやってみるか』計算地獄」。「mimicry FLASH」というサイトからダウンロードできるので、検索してみてほしい。これは、EZアプリからダウンロードできるものとは一線を画する出来であり、auユーザーであれば是非試していただきたい一品である。厳密に言うとアプリではなくフラッシュなので、もしかしたら他のキャリアでも使えるかもしれない。
ゲームの内容は単純。加減乗除を制限時間内に何問解けるか、というもの。問題は足し算オンリー、足し算引き算、全部の三種類で、時間は60秒、120秒、300秒。自分がやっているのはもっぱら足し算の60秒。最高記録は現在、51問。このスコアはそう簡単に抜かれないと自負している。auな方はぜひやってみてほしい。
なんとなくではあるが、効果は実感できる。最初は25問程度しか解けなかったのだが、今ではその倍ほど解くことができるようになった。なんとなく頭もクリアになった気がする。ただし、ゲームのくせに気晴らしにはならない。長時間やっていると、とにかく脳が痛くなるのだ。300秒などやった日には、その日一日脳がストライキを起こして強制終了してしまいそうなくらいの疲れっぷりになる。基本的には勉強の合間にやっているのだが、時としてどっちが脳を休めているのか分からなくなる。

さて、面接はすぐに終わった。その後は天神近くのビックカメラに直行した。これは自分にとって、何か恒例行事のようなものである。自分のめぼしをつけている商品の現物を眺めに行くのである。今回の注目は以前に紹介したF30と音楽プレイヤーsansa e200シリーズ。この名を知っている人がいれば、ジャイアンばりに「心の友よ~」となるのだが、おそらくいらっしゃらないだろうな。これはフラッシュメモリの生産で有名なアメリカのサンディスクがiPodに対抗するために作ったプレイヤーである。アメリカでの新商品発表会のような場所に出品されて、その反iPodな仕様で自分のようなごく少数の人間の心を掴んで離さなかったのだが、日本での販売は見送られ、悶々としていたところなのだった。それが最近ようやく大型量販店で取り扱いが始まったとの情報を受け、今回出動するに至ったのであった。ま、なかったのだが。

もうひとつ、ビックカメラでの話題。店内をうろうろしていたところ、大型テレビコーナーにやたらと人が集まっていた。アイドルか何かが来てイベントでもやっているのかと思ったのだが、テレビに映るはちっとも美しくない坊主たち。そう、ちょうど甲子園の決勝戦の最終回、9回の駒大苫小牧の攻撃の場面だったのだ。これは何かの運命と、自分もその輪に加わる。スコアは1対4で早稲田実がリード、もう決まりかなと思ったのだが駒大は二番からの好打順。この先頭打者がセンター前ヒットで出塁、そして次のバッターは何とバックスクリーンへのホームラン。ノーアウトであと一点差。脳裏に浮かぶのは帝京VS智弁和歌山、こうなれば逆転への期待も高まらざるを得ない。しかし、相手のピッチャーは冷静であった。さすが決勝まで残る選手である。次の四番のメガネくんを三振、次も凡退でツーアウト。次のバッターは投手の田中くん。二日に及んだ熱戦は、やはりこの二人の対決によって終わるのか。あまりに出来すぎている展開であった。ファールで粘るも最後は三振、ここでゲームセット。試合が終了すると、その場に歓声があがった。ふと後ろを見ると、自分の後ろにもさらに人が増えている。中には店員まで混じっている。しかし、悪い気はしなかった。

そのあと熊本に帰り着いて、家の近くのコンビニで買い物をしていたところ、じいさんと孫の二人連れが「号外は来てないか」と店員に尋ねていた。あの人たちもあの熱戦にわくわくさせられて、たまらなくなったのだろう。今回の一件で、甲子園というものは、一つの大きな祭りなんだなということを実感させられた。地元の代表が出ているわけでもない。にもかかわらず、たくさんの人々がテレビにかじりついて、その一球一球に一喜一憂しているのである。これまでそれほど甲子園に思い入れはなかったのが、少し来年の夏が楽しみになった。


こんなことを考えながら歩いていたその帰り道、ふと下を向くとセミが仰向けで眠っているのを見つけた。まったく、にくい演出をしてくれるものである。

甲子園が終わり、夏の終わりも近づいている。




☆本日のコピペのコピペ☆
野村克也は現役時代、名捕手だったと聞いたことがあるんだ。
でも彼にとってのストライクは野村沙知代だったんだ。

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トイレに思う
洋式トイレの場合に、座って用を足す男性がおられると言う。最近では、そのように躾ける親もいるということだ。理屈は簡単である。立って用を足すとなると、子どもは言うに及ばず、成人とて狙いをよく定めねば枠内に収めて用を足すことは難しい。女性の方々には分からないであろうが、難しいのである。そうすると便器の周り、便座カバーを汚してしまうこととなる。これが最大の理由である。掃除する側にとってみれば迷惑千万であろう。安全に行う策があるにもかかわらずわざわざ危険な方法を用い、案の定汚しているのだからである。こう考えると、子どもに対して親がそのように躾けるのもうなずける。そのように用を足す成人男性というのも一人暮らしで、汚せば自分で掃除せねばならない身分なのではあるまいか。確かに合理的である。

この一方で、反論もあるようだ。この反論と言うのが随分と珍妙である。曰く、「男性らしさが失われてしまう」。何となく理にかなっているように聞こえるのかもしれない。もちろん、その主張がこれ自体で構成されているわけではない。行き過ぎたジェンダー教育への反論の、ひとつの具体例に過ぎない。けれども、これを見たときにずいぶんと考えさせられたものである。そんなものに支えられているという「男性らしさ」とは何なのかと。男性として守るべきものはあろう。その主張は理解できる。しかし、それはそれほど表層的なものではないはずである。他に主張するべきことはあるのではないか。

槇原敬之の作品に「男はつらいっすねぇ」という曲がある。かっこ良くあってほしいという女性に応えようとする男の悲哀を歌った曲である。そのワンフレーズにはこうある。「ズボンの中でくしゃくしゃになってしまったトランクスで部屋中うろうろしていても、尊敬される男になりたい」。要するに見た目の部分でなく、中身で評価されるような人間になりたいということだろう。これはいつも自分自身に言い聞かせているフレーズである。座って用を足していても、尊敬される男になりたいものだ。そう言えば、現実として部屋中をトランクスで歩き回っているだけに、こいつは火急の課題である。

☆本日のコピペのコピペ☆

ドイツっぽく便意を伝えたい

1 :番組の途中ですが名無しです :2005/11/16(水) 21:40:27 ID:ig6hMGLi0
うんこシュタイナー


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金は力である
来週の月曜日に、ある企業の面接を受けることになった。そこでその会社にまつわる就職情報をなどを調べていたところ、面接のときに「出世したいか」、「金儲けしたいか」といったことを聞かれたそうな。さすがに、これまで受けてきた公務員とはだいぶ違っているなという印象を受けた。相手は創業4,5年の新しい会社なので、野心のある人間を採りたいということなのだろう。

金儲けをしたいか。もちろんできるに越したことはないと思う。村上某が逮捕前会見で言ったように、わたしも金儲けするということ自体が悪いとは思わない。そこから税金が納められ、それが社会に還元されることで国民全体が利益を受けることができるのである。ただし、そこには法律を遵守することはもちろん、法に規定されていなくとも道理にかなわぬことはしないという倫理観がなくてはならない。結局のところ彼、そしてその仲間の堀江某も、こういった部分が欠けていた。そして、それが「金さえあれば何でもできる」といった傲慢な態度に繋がった。彼らの態度に関しては誰かに命じられたキャラ作りという見方もでき、それを単純に彼らの責任にすることについては慎重にしなくてはならないが。

タイトルにも掲げたように、わたしは「金は力」であると思う。それがあれば何でもできる、という意味ではない。たとえば腕力で考えてみよう。それはは悪い方向に使うことも可能だが、同様に良い方向にでも使うことができる。より分かりやすく言えば、人を殴るのも「力」であるが、同様にレディの抱えた荷物を持ってあげるのも「力」であるということだ。それがなければ人を殴ることはできないが、同じようにレディの抱えた荷物を持つこともできない。分かりにくく言えば、力とはジャイアンなのだ。その役割が通常アニメ版なのか、劇場版なのかという違いはあれ、ジャイアンなのである。力なきジャイアンは茶の間のテレビでのび太をいじめることはなくなるかもしれないが、スクリーン上でのファイト溢れる活躍も望めなくなってしまうということだ。

つまり、その「金」「力」があること自体に問題があるわけではなく、問題なのはそれをどのように使うか、ということではないか。金があれば何でもできる。こういうと女や麻薬といった悪どいイメージがあるが、そればかりではない。金があればこそ、ボランティアや恵まれない子どもたちへの募金だって可能になる。結局はそれをどのように使うかということが問題なのである。

余談だが、ボランティアなどという酔狂なことをやるには金が溢れていなければ普通はできない。学生のうちはまだ良いだろうが、それでメシを食うようになったらそれはもうボランティアではない。それを生業としようとするのがいわゆる「市民」たちの潔癖さの所以であり、間違いの根本である。出発点の段階ではそれなりに正しかったことでも、それを無理に続けようとするがゆえに、瑣末な問題をほじくり出したり、捏造したりということが必然的に起こってくるのである。何を言っているのか分からない方、憤懣やる方ない方はとりあえず一連の従軍慰安婦問題を調べることを強くお勧めしておく。
思うに、金に限らずこういった方は力を持つことの負の側面に耐えられないのか、それに耐える自信がないのであろう。たとえば権力である。権力者は往々にして悪事を働くが、これもまた金と同様である。それを悪い方向に使うこともできるが、良い方向に使うこともできる。そして民主主義のこの世の中、それなりに望ましいと思われた人間が国民に選ばれて権力を持ち、世の中を作っていくのだ。優秀な人間に権力を集中させることは運営上不可欠で(一億二千万人で直接投票しますか?)、誰かがその任務はこなさなければならない。かつ、その選ばれたのが愚かなのは選んだ人たちの頭がお粗末であっただけで、政治家が攻められる言われはない。
にもかかわらず、市民とやらにはこうした意識などない。むしろ「権力すなわち悪」という時代遅れの考えしか持ち合わせていない。だからこそ正しいことをしようと思っていながらも、結局何にもできず他人の足を引っ張るだけしかできないのである。力なきジャイアンに活躍の場などは提供されないのだ。最後に、あなた方の活動に縁のない庶民に対する批判は、あなた方と政治家との間にも成立する。「実際にやらない奴が文句を言うな」ということだ。


さてさて、大幅に話が逸れた。サヨ批判はこの程度にしておこう。結局のところ、力を持つことが問題ではなく、それをどのように使うかどうかが大事ではないかということが、本日の結論である。権力も力であり、金も力である。それを持つのは良いが、それを持つにはいっそうの倫理観が必要になってくるのだ。こんなことを社会的にも金銭的にも超非力な今の自分が言うのもあれだが、そういうことだ。


今回から読後の清涼剤として、ネット上で笑えたネタをコピペすることにしたのでよろしく。


☆ 今日のコピペのコピペ ☆

451 名前:名無しなのに合格 投稿日:2006/03/10(金) 23:11:40
アルバイトの志望動機に
「遊ぶ金欲しさ」と書いてバイト落ちた友達がいたよ

452 名前:名無しなのに合格 投稿日:2006/03/10(金) 23:40:04
>>451
それ犯行動機だろwww


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物欲万歳 デジカメ編
デジカメが欲しい。一つ持っているのだが、何といってもデカいのだ。いわゆる一眼レフのようにレンズ交換はできないのだが、サイズはほぼそれと同レベル。ちょっとカバンなどに入れて持ち歩いて、気に入ったものを撮るなどということは到底不可能なのである。
ちなみにこいつの名はDimage7Hi。4年前の機種だが、当時としてはミノルタの最新最強機種(お値段定価188000円!)で、それまでに出ていた7iという商品の内蔵メモリを増設した限定生産品(限定わずか3000台!)。後で調べてみると意外にプレミアムな機種だったのだが、自分が見たのはそんな威厳などすっかりを失って中古品コーナーにたたずんでいる彼の姿だった。値段は33000円くらいだったろうか。そのとき新しいデジカメを探していた自分は、7倍ズームとISO感度800対応、広角28mmに惹かれて購入に至ったのであった。状態はほぼ完璧で、付属品も完璧。何せ定価19万だけに、ストラップが本皮(公式ページで見たら定価5000円)だとか、無駄に豪華だ。液晶画面などに傷も付いてなかったのでかなりの掘り出し物であった。

そんな彼だったのだが、やはりデカい。これが一番のネックである。どこかに写真を撮りに行こう!というときには良いのだが、それ以外のときなど持ち運びたいなどとは絶対に思わない。最近、地元に帰って中学や高校のときの友人に会うことがあったが、そんな場にすら持って行きたくないと思わせるほどである。

ということで新しいコンパクトなデジカメが欲しいのだ。以前カシオのデジカメ販売応援のバイトをやっていた手前、今もよく売れ筋を眺めているのだが、最近の売れ筋は変わらずcanon、Panasonicのようだ。これは二強である。ここからどれだけ自社の商品に代えさせるかが数字を残せるか否かの分かれ目といっても良いくらいであった。我ながらせこいな。面白いのはcanonのIXYはIXYと呼ばれるのに、Panaの場合は「あゆのデジカメありますか?」となることだ。自分くらいの年代の方であればあのコテコテのアイドル使っとけばいいやろ?的なノリに嫌悪感を抱かない方のほうが少ないかと思われるが、中高生、そしてこれが意外なのだがおばちゃん世代に商品を認知させるのに大いに役立っているのである。そういえば前にユニクロでバイトしてたとき、藤原紀香がCMに出演していた時期には「紀香がCMで履いてたあのパンツありますか」というお客さんもいた。そして、そういえばそれもおばちゃんだった。

ようやく本題だが、現在の最有力候補はFUJIのF30である。高感度ISO3200で撮れることが一番の売り。分かりやすく言うと、フラッシュなしでもブレが起こりにくいということである。これは室内を撮るときに便利である。室内の場合はどうしても光量が不足しがちで、そのためにシャッターが降りるのが遅くなって、結果的にブレが生じやすいのだ。特に居酒屋のような場所はわざわざ照明を落としているところが多い。飲み会などで撮った写真がブレまくりで、まともに写っていなかった、というのは誰しも経験があることではないか。そういった用途に、現在出ている機種の中ではもっとも強いのがこの機種である。
それ以外の部分でも納得できる性能を持っている。ボディサイズはやや厚めだが、電池の持ちがトップクラスで良いので我慢できる。唯一の弱点は対応メディアがxDカードであるという点か。現在もっとも普及しているのはSDカードで、もっとも普及していないのがこのxDカード。これの何が問題かというと、普及しているものに比べて価格が高くなってしまうのと、次に買い換えるときに選択肢が狭まってしまうこと。値段は場所にもよるが、およそ2倍程度。1ギガのSDカードなら3000円くらいからあるが、xDになると6000円程度は考えなければならない。それと、xDを使うカメラは富士フィルムとオリンパスのもののみなので、それ以外を選択する場合にはまたメディアごと買う必要がある。この手のメディアは年が経つにつれて劇的に安くなるので、買い換えるときにそれほど負担となるわけではないのだが、どこかMOTTAINAIと思わざるを得ない。

その点のみデメリットはあるが、それ以外は概ね満足できる。これでメディアがSDで、同社のZシリーズくらいスリムになって、ファインダーが付いてくれれば言うことないのだが・・・。しかし、要求を言い出すとキリはない。現時点としては、それなりにまとまった良い機種ではないかと思われる。これからデジカメを購入しようと考えている方には、ぜひ検討していただきたい一品である。

ちなみに次点はcanonのIXY800IS。ついに高感度ISO800まで設定できて、かつ手ブレ補正機能が付いたIXY。しかし、2ちゃんねる的にはそういった新要素が搭載された代わりに画質は落ちているらしく、写りにこだわるのならば旧機種のIXY700の方がお勧めとのことらしい。実際に見たわけではないから真相は分からない。個人的にcanonはデザイン良し、写り良し、なのだが電池の持ちが悪すぎるのが玉にキズ。電池がなければ撮ることも見ることもできないのだから、電池の持ちが弱いというのは致命的である。

最後に、これを書くために富士フィルムのHPに行ったところ、イメージキャラクターがあのエビちゃんとやらであることに気付いた。名前にインパクトがあるので覚えてしまったが、顔までは覚えていなかった。彼女、どこかしこにエビちゃんとしか書いてないものだから、本名もよく分からない。こうなるともう、いっそのことエビちゃんに芸名変更させたくなる。さかなクンなんてのもいる世の中である。ともに魚介類同士、うまく行きそうではないか。ま、それは良いとして、結構な知名度のエビちゃん効果でこのカメラも売れているのではなかろうか。今日もどこかでおばちゃんが「エビちゃんのカメラありますか?」などと屈託なく店員に声をかけているのかもしれない。

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甲子園のドラマ?
たまたまテレビをつけたら、帝京×智弁和歌山戦をやっていた。9回表で4点差。これは厳しいなぁと思ったら、ツーアウトから4,5本連続ヒットで2点返し、最後にはホームランまで出て、何と逆転。これで終わったか、頑張ったな帝京。と思っていたら、ドラマは終わらない。9回のマウンドに上がったのはこれまでと違う選手。しっかり見ていなかったので気付かなかったが、ピッチャーのところで代打を使っていたらしい。この投手がまずかった。まったくストライクが入らず、ノーアウトランナー1,2塁にして、そこでホームランを浴びる。一点差。アナウンサーによると、今大会では初めての登板だったという。しかも、あの大歓声の中。緊張せぬ方がおかしいというものだが、これで一気に流れが変わった。慌てて次の投手を送るも、またフォアボール。さらにまた新たな選手をマウンドに送るも制球は定まらず、結局満塁からのフォアボール押し出しでゲームセット。

これを指して、人は「甲子園にはドラマがある」というのだろう。ここまで派手だとわたしとしても面白かったし、そう思いたいところでもあるのだが、どこかこの意見には引っかかるものがある。ドラマとは何だろう。負けると思っていた方が勝つ、勝つと思っていた方が負ける。そんなところではないか。確かに世にあるドラマというものはそういうものだが、現実として番狂わせが起こる理由は、本人の熱意とか根性とかというありがちなものではなく、単に見ている人間にとって敵となるチーム側がプレッシャーに負けたためなのではないか。

たとえば9回表の2アウトから、帝京の選手が連続ヒットを放って満塁にして、さらにヒットが続いた。この場面を打った方から見れば、気合だ、根性だ!!というように精神力の強さで解釈するのが普通だろう。しかし、これらを相手投手の心理状態から考えると、また違ったことが見えてくる。あれだけ連打されれば、とても冷静ではいられなかったであろう。なにせ、彼らはプロではなく高校生である。あのような舞台に立った経験などないに等しい。とすれば、あの状況においては本来の力を出し切ることができたとは考えにくい。制球が乱れ、ボールが先行したり甘いコースに入ったり。この精神力の弱さこそがドラマの原因ではないかと思うわけである。

つまるところ、危機的状況でのヒットなどのドラマ的展開というのは打った側の精神力の強さというよりはむしろ、投げる側・守る側の精神力の弱さの問題ではないか。これがわたしの考えである。より平たく言えば、精神力の弱さこそが、高校野球をドラマ的展開になりやすくしている、ということだ。

どのように見るかは自分次第で、そこにドラマを思い描くのも結構だろう。しかし、実際にはどうなのかと考えることもたまには必要なのではないか。ただし、それによって純粋に楽しめなくなるという危険性は大いにあるので気を付けられますよう。以上、高校野球を無垢に楽しめなくなった人間による、更なる被害者拡大を図るための駄文でした。

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靖国問題、そして蛍の墓
予想通り、思ったよりも批判は少なかった。暴動が起こりそうではあったらしいが、当局により早急に解散命令が出たとのニュースを耳にした。韓国も同様である。日本からの独立記念の祭典においてノムヒョン大統領も、靖国神社参拝についての直接的な言明は避けたとのことである。こうしたことから分かるように、中韓の対応には明らかなシフトが行われたように思われる。それをことさらに問題化してしまうと、それを阻止できなかった自分たちの責任問題ともなり得る。

やはり、この点からすれば小泉グッジョブと言わざるを得ない。これで中韓の歴史認識持ち出し作戦が収束していってくれれば言うことなしである。もっとも、わたしは彼の態度を完全に肯定しているわけではない。わたしが評価するのは、あの行為を(これまでの首相のように)中韓の圧力に屈せずに果たし、中国韓国の歴史認識を持ち出して日本から譲歩を引き出すという幾度となく行われてきた政策に強力な一撃を加えたという点においてである。

参拝するにしても、そこに対話を行おうという意志は見られない。本当に自らが正しいと思っているのであれば、それを堂々と述べれば良い。そして、それはある程度の説得力を持っていると思われる。前回書いたA級戦犯合祀までの経緯など。何も言わないから、そこにまだ付け入る隙があるし、政治的意図なしに真摯に胸を痛めておられる方への説明も果たされず、不信感が募ることになってしまうのだ。

とはいえ、彼の行動は大きな変化をもたらすだろう。それは決して悪い方向だけではないはずだ。これでいい加減日本のマスゴミと自称市民団体も目を覚ましてくれれば良いのだが、これにはまだまだ長い時間がかかりそうだ。いまだに戦争の悪、旧日本軍の悪を追及することこそが平和への道であると信じきっているようである。この騒ぎっぷりを見れば一目瞭然だろう。先日の夜にはNHKの討論番組を見ていたのだが、そこでも(おそらく)意図的な史実の無視をやらかす。それは昨日書いた遺族援護法改正。この部分を省くものだから、韓国中国と国交を回復した後に、日本がこっそりA級戦犯だった人々を合祀したかのような印象を与えている。こんな詐術を色々やっているので、ロクにテレビは見られない。この詐術に惑わされないためには、さまざまな情報を手に入れて、それを取捨選択することだ。機を見てここでも色々と紹介して行くつもりである。



それともう一つ、昨日の夜には「蛍の墓」を見た。えぇ、ヒマたくさんありますから。それはさておき、作品について説明は不要だろう。戦争のために親と引き離された14歳の少年と4歳の少女が、貧しいながらも必死に生き抜こうとする物語である。わたしがもっとも胸を打たれたのは、一番最後のシーン。魂になった二人が小高い丘に座っている。その場所は節子を火葬した場所であった。節子は清太に寄り添いながら寝息を立て始める。清太は遠くを見つめている。見つめる先に広がるのは、きらびやかなビルディングの立ち並ぶ街並み。

それまで過去に行っていたわたしの心は、このシーンで一気に現代にまで引き戻されることとなった。そして、それがただの昔話ではないということを思い起こさせたのだった。そう、今も清太たちは今の日本、そしてわたしたちを見ているのである。

わたしたちは過去の戦争で不幸な目にあった方々がに感謝せねばならない。その尊い犠牲があったからこそ、今の日本があるのである。
あのような惨禍を繰り返してはならない。そのために何ができるだろうか。それぞれの人間が、そのことを考えること。これに尽きるのだろう。その誓いを新たにした8月15日であった。

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始まりの日
他のブログでこれまで書いていたが、新しく始めてみた。以前のものでは色々と書きたいことを推敲しすぎて書き進まず、更新する日の方が少ないような状態であった。それはそれで意義はあるかもしれないとはいえ、ブログの即時性というメリットをあまりに犠牲にしたものであった。この反省をもとに、こっちの方では日ごろの身の回りの出来事、考えたことなどを紹介していくつもりである。

さて、今日は8月15日である。小泉は靖国についに参拝。というか、あれだけ周りが騒いでいれば、行くつもりでなくとも「ここまで言われたら行くしかねぇ!」となるのも頷ける。わたしとしては、なぜこれほどまでに反対が起こるのか理解できない。これについて、少しばかり論考をしてみたい。
反対論者はA級戦犯が問題だと言う。しかし賢明な方なら知っておられるように、そもそもあの場所にはもうA級戦犯などいない。今もその正当性が疑われている東京裁判において、それらの人々は死を持って罪を償った。さらに、その後には4000万人の署名という圧倒的な国民の意思で持って、戦犯者の権威回復が叫ばれ、それは1953年の遺族援護法の改正という形で結実する。旧敵国の軍事裁判で有罪とされた人は、日本の国内法では罪人と見なさないという判断基準が明確に示され、遺族に対し年金と弔慰金が支給されることとなった。これは与野党関係なく、全会一致で可決されている。こうして後の1978年、いわゆるA級戦犯は靖国神社に合祀されることになるのである。

このように、当時の国民の圧倒的支持があったということをまず理解しておかなければならない。それは日本国民の大多数が望むところであったのである。それが気に食わないのは、中国韓国である。そして、反対論のもう一つの主流は中国韓国との政情悪化である。しかし、これを理解することはできない。それは、彼らの主張が極めて政治的意図を持つものであるということ、そして死生観の違いに由来するものであると考えられるためである。
まず、その政治的意図についてだが、これについてはようやく知られるようになってきた。広い中国をまとめるために共通の敵を作る、それが徹底的な反日教育の理由であった。また、過去の侵略という古傷を持ち出すことによって、さらにそれを未解決の問題として常に争点化させておくことで、日本側から譲歩を引き出す手段としていた。であるからこの問題が問題として残り続けることが彼らの目的であり、相手の要求をいくら飲もうとも、根本的な解決に向かうことなどは不可能なのである。

もう一つ、相容れないことの大きな原因と考えられるのは、死生観ではないか。死んだらみんな仏になる、というのが日本人の感覚であるように思う。どんなに現役のときには叩かれていた総理大臣だって、死んでしまえば何かしらいいところが報道されてしまうのが日本である。いくら売国奴であろうとも、1000年近く前の人物の像に唾を吐きかける習慣があるような国民の感覚と相容れることはできないのが当然であり、相互理解などは望むことなど不可能に近い。

こうした理由がある以上、分かり合うことは不可能であろう。その点から考えれば、今回の参拝をわたしは評価する。反対をしたにもかかわらず参拝を行ったことで、批判は中国韓国政府にも及ぶと考えられるためである。今後も同様のことが続くとすれば、政治的利用の価値はなくなることになる。つまり、中韓の反対する理由のひとつは消滅するということである。死生観の違いについて、共有することは容易ではない。それには根気強い対話が必要になってこよう。


本日8月15日は日本が戦争に敗れ、新たな道を歩み出した始まりの日であった。いい加減に媚びへつらうのを止めて、新たな関係の始まりの日となるように祈るばかりである。


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