スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:-- | スポンサー広告 | Trackback(-) | Comment(-)
引越しと新生活。
どうもご無沙汰しております。かなり更新していないにもかかわらず、毎日20程度はアクセスがあるようで、ありがたい限りであります。新居にネットが開通するまで、まだまだかかりそうなのでしばらくは今のようなペースになることと思います。

さて、ようやく引越しを済ませた。その辺の事情について今回は書いてみよう。何か自分がやるときはドタバタになってしまうことについては以前にも述べた。今回もいつものとおりで、24日の夜までアルバイトで、25日の早朝から兄の車で直行という強行スケジュール。普通は3時間ほどかかるそうであるが、早朝の交通量と兄の運転により異常に早く着く。兄の運転する車に乗るといつもレースゲームをやっている感覚に陥るのはなぜだろう。
そして朝から不動産屋巡り。就職が決まる少し前にアルバイトを始めたおかげで現地に行くことができなかった。そのためにネットでめぼしいところを探して、現物を見て最終決定をしようという作戦を取らざるを得なかった。午前中のうちに5つの不動産をハシゴして、10件近くの物件を見る。これだけいくつも見ると、それぞれの会社や担当の方の違いが見えてきて面白かった。これについての詳細は次回以降に書くことになろう。結果としては一番安い物件に決定。その他の物件のが軒並み4万を超えている中で唯一の3万円台。というか3万円(+共益費2000円)。内装がたいそう汚かろうと思っていたので即決はできなかったのだが、予想以上に綺麗でそれが決め手になった。窓から大学が見れるほどに激近であり、立地条件も申し分ない。ただしキャンパスが3つに分かれていて、どこに配属されるか10月の勤務初日まで分からないという不確定要素はあるのだが。
その日に物件を見てかつ契約してかつその日に入居という無茶を通して荷物を搬入。その後には家財探し。大学時代はずっと寮であったためにさっぱり持っていないのだ。近くのコジマに行ってコンロと電子レンジ、トースターを買う。冷蔵庫と洗濯機という大物も必要なのだがさすがに高い買い物だけにいろいろと調べてから買いたいという思いがあり、いまだナッシング。今日1万の洗濯機をリサイクルショップで発見したので、この後ネットで調べてみて購入予定である。冷蔵庫も早く買わなければいけない。今日はスーパーに食料品を買いにも行ったのが、冷蔵庫なしでは選択肢がやたらと狭まる。なま物、野菜は全て却下。炊飯器がないけどとりあえずはパンでいいかと考えていたのだがマーガリンが保存できないことに購入後に気付いた。そもそもそれ以前にマーガリンの購入を忘れていたのだが。なくしてみて初めて分かることがある、なんて言うけれども、実際にそう思う。冷蔵庫、君なしではいられないんだ。
その他、本棚のようなものもさっぱりないために大量の本はまだ段ボールの中。机や引き出しなども皆無なので床中にいろんなものが散乱している。金にモノを言わせれば何とでもなるのだがバイトの給料が出るのは来月だし、仕事の給料も来月末。今の時点では生き延びるのが先決で、それらが片付くのはかなり後になろう。どうせあっても汚いだろうと考えられた方、あなたはわたしをよく理解している。しかし、これはポリシーなので仕方ない。考えてみてほしい、部屋とは何のために存在するのかと。それはあくまで第一には生活するためにあるものなのであり、綺麗に留めておくことが目的ではないのである。常にきれいにしておきたいという精神は、いつまでも消しゴムのカドを大事に残しているのと同じように感じられる。

現在の状況はこんな調子である。明日は冷蔵庫と洗濯機を求めて流浪するつもり。地理も分からない場所で探し物をするというのは大変ではあるが、多くの発見もある。住んでいる場所は中心街にも近いし郊外の巨大店舗街にも近く、さらには海にも近いというすばらしすぎるロケーション。そのために少し自転車を走らせればいろんな店なり自然なりが見つけることができる。今日は鹿児島の代名詞、桜島を拝むことができた。大気で青みがかっていたがその迫力はなかなかのものである。暇ができれば写真なども久々に撮って、久々にアップもしたいものである。ただし、家でネットがつながるまでは難しいだろう。更新についてはネットカフェを利用して、できる限りやっていくつもりである。それではまた。

ブログランキングに登録しました。こちらもよろしくお願いします。
人気blogランキングへ

☆本日のコピペのコピペ☆
10: 2006/03/13 20:19:29 Mj4Y07Tg [sage]
去年の大晦日、お袋と妹の三人でそば屋に入った。
俺とお袋は腹一杯だったから妹の分だけ頼んだら、そば屋の親父が何を勘違いしたのか、 一杯のどんぶりの中に3玉もそばを入れやがった。
こんなに入れられると食べきる前に、そばが汁を吸ってしまうと妹もうんざり。
かといって親父の好意を無にして残すのも気が引ける。
結局、仕方なかったので3玉入ったそばを仕方なく3人で完食。
満腹だったのを無理して食ったから俺もお袋も苦しくて半泣き状態だった。
そしたら親父のやつ半ベソ状態の俺達をみて何を勘違いしたのか、
「苦しくても頑張るんだよ」ときたもんだ。苦しくさせたのはアンタだろ。
心の中でツッコミを入れつつ俺は親父にそばの代金を払った。カードで。


☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★

本日もご覧いただきありがとうございます。
↓↓愛のワンクリック募集中であります↓↓
スポンサーサイト
黒船来航、クールビズ
新しい職場はクールビズらしい。以前の大学説明会での一節から、ふとそんなことを思い出した。クールビズというと、ノーネクタイ・ノージャケットであることを想像しがちであるが、実際には具体的な衣装を定義するものではないようだ。「事務所衛生基準規則を出所とした摂氏28度という温度設定の中でも涼しく効率的に働くことが出来るような軽装全般を指していて、それが満たされる衣服であればよいとされている」(wikipedia)そうである。とは言え結局のところは、これまでのようなスーツにネクタイという格好ができなくなることと言って差し支えはあるまい。その最大の目的はCO2の削減。できる限り薄着をすることによって、冷房の設定温度を下げてCO2排出を減らそうということである。環境省の調査によると「例年より冷房温度を高く設定している」という回答は全体の32,7%にのぼり、それなりの効果はあったようだ。かつ、その名前自体が流行語となることで、多くの人々が環境に対する関心を持たせたという点の功績も見逃せない。ただし、衣類買い替えの需要などによる経済活動により、削減量は相殺されるという見方もあるようだ。
こんなクールビズであるが、その一番の目的、つまりCO2排出削減で話題になったという点のみから注目を受けていたわけではない。むしろ、こちらの点からの捉え方の方が多かったのではないか。それは、これまでのサラリーマン男性のファッション概念を根底から覆したという点である。

高校から大学になって、毎日のファッションが面倒と感じたことはないだろうか。制服というのは楽である。今日は何を着よう、明日は何を着ようなどと考える必要がないからである。サラリーマンはこれまでシャツにネクタイで、フォーマルな場では上着まで着るというのが鉄則であった。リクルートスタイルもそれに準じている。それは面倒だし暑いとも考えられるが、逆に考えればその格好をしていれば「ちゃんとしている」と認識されるという点で楽なのである。そのように見られるのには、何の努力も必要ない。どんな安物のスーツに安いネクタイをしても、それなりに見えてしまう。特にネクタイは、それ一本締めていればそれなりにフォーマルに見えてしまうから不思議なものである。これら定番の格好というものがきっちり決まっていたため、これまでのサラリーマンはファッションについて何も考える必要がなかった。仕事のときにはネクタイをして、アフターファイブには外し、酔いが回ればアタマに巻く。これが基本であった。

しかしこの平和な時代は、クールビズという黒船のために一気に崩壊することになる。頼みの綱であったネクタイと上着を奪われ、シャツ一丁で勝負することを余儀なくされるようになったのだ。これまでだらしないとされていた格好を、他の助けを借りずにだらしなくないように見せる努力を課せられたわけである。スーツとネクタイに慣れてしまった彼らに、かっこよく見せる能力というのは皆無である。彼らとて思春期の頃はそれなりに着飾っていたに違いない。しかし、日々の激務に追われていつの間にか洒落っ気などどこかになくしてしまい、気が付けば着ているものはプライベートまで含めて妻の買ったもの、というのが現実ではないか。これは、それまで世界トップレベルにあったにもかかわらず、太平の世になってすっかり廃れてしまった鉄砲のようなものだ。そもそもノーネクタイ=だらしないとして反発するという発想が情けなくはないだろうか。社会の慣行もあろうが、自分たちの格好はネクタイなしではだらしないのだと自ら宣言しているようなものではないか。

先日の奴隷の話と被る部分もあるが、考えないということは楽なのである。思い悩む必要などなく、単に規則や主人に従っていればそれで良いとされるのである。自由というと聞こえは良いが、そうすると自分で何でも考える必要がある。これという一つの何か、スーツにネクタイのようなものがある場合、それをまとってさえいれば誰も文句は言わない。しかしそれがない場合、もしくは許されない場合、あれこれとその場所に合わせて毎度毎度コーディネイトを考える必要が出てくる。端的に言うと、自由であるということは不自由である。つまり、ある点において際限なく自由であると言うことは、それについて選択などに時間等を費やさざるを得なくなってしまうことになり、その結果としてそれ以外の部分、そして全体的には不自由になってしまうということである。

このクールビズ、公務員職の場合にはかなり広まっているようであるが、民間企業の場合は相手の理解が必要であるためスムーズには行っていないようだ。しかし、これが受け入れられるようになることは、環境への配慮という点以上にサラリーマンの心の持ちようという点から重要なことであると思う。日本人の仕事馬鹿っぷりは世界レベルで認知されているが、愚直になんでもまじめにやっていればそれで良いという時代は過ぎた。もちろんそれは今後も大切にしていくべき価値観ではあるが、そればかりではなく仕事以外のものにも目を向けなければならない。それは何も最近の拝金主義や「ちょいワル親父」などの軽薄な風潮を安易に肯定するものではない。わたしがこのように主張するのは、彼らの度を越えた仕事以外のものへの興味のなさ、その根底にある奴隷的精神とその弊害を憂うがゆえであり、別のものに関心を持たざるを得なくなるということが同時にそれ以外の部分、たとえば社会への無関心という問題などに何らかのインパクトを与えてくれればと考えるためである。ファッションへの関心がそれ以外の社会の動向などへの関心、ひいては政治などに対する関心に発展していってくれれば言うことはない。まぁ、そううまくはいかないのだろうが、千里の道も一歩からである。


ところで、かく言うわたしもこれまで制服の恩恵に甘んじていた者の一人である。中学・高校のときなどは、一旦帰宅した後でも近くの本屋などに外出するときには制服で出掛けていたほどである。よって、今回クールビズと対峙するにあたって一体どのようにコーディネイトすれば良いのか皆目見当が付かず、色々とネットで調べる羽目になった。そんな中で発見した或るブログのこんな一言で今回の文章を締めくくりたい。

「当サイトに来る人は、クールビズの着こなし情報を、(´Д`)こんな顔で必死に探してきていることから、悩みの度合いが分かりますね~」

はい、悩んでおります(´Д`)


ブログランキングに登録しました。こちらもよろしくお願いします。
人気blogランキングへ

☆本日のコピペのコピペ☆
768 名前:名無し職人 メール:sage 投稿日:2005/11/29(火) 00:56:41
喫茶店で「明日があるさ」が流れたとき
「明日なんてねぇよ!」と怒鳴って店を出て消息を絶ったY課長。
娘さんが結婚しましたよ。
今どこにいるのか知りませんが祝ってあげてください。

☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★

本日もご覧いただきありがとうございます。
↓↓愛のワンクリック募集中であります↓↓
新卒フリーターに優越♪
何と、受かってしまった。九州の某国立大学法人の事務。ちなみに前に書いた家庭教師派遣業はコケました。ちょうどアルバイトを始めて金の工面も何とかなりそうで、秋から本格的に就職活動に臨もうと思っていた矢先であった。始まりはバイト中にかかってきた突然の電話。

「○○大学ですが・・・」

最初は何のことか分からなかった。というのも大学事務の面接自体は7月に受けていたのだが返事がなく、もう落ちたと思っていたためである。9月末に二次募集があるとのことで、そっちには書類を提出するつもりであったのだが、まさかこのタイミングでかかってくるとは思っていなかった。話を聞いてみると、市役所や県庁などに受かったので大学事務を蹴った人間が数人出て、新たな採用者を探しているのだという。このときはまだ一次確認ということで、特に詳しい内容について聞かなかった。また明日以降にまたかけると言われて、その日は終わりであった。次の電話は二日後に、これまた唐突に唐突な内容を抱えてやってきた。

「明日来れますか?」

また急な話だな、オイ。と思いつつも、わたしはフリーなフリーター。バイトも基本的に土日のみで、平日は何の予定もないので二つ返事で約束をする。

次の日、そこに旅立つ。雨が降りそうであったのでバスに乗る。基本的にわたしは交通機関嫌いで、自転車大好き人間である。地元はバスが発達しているが、それでも15分に一本程度。最長で15分も待たされるわけで、あの待たされるときの時間が耐えられないのだ。今回はそれがまさに現実のものとなる。記載された時間になってもバスが来ない。4,5分も過ぎた頃にはその便はもう行ってしまったと思い、運動のために次のバスに歩いていた。まぁオチはありがちだ。歩いていてちょうどバス停とバス停の間辺りで、大きな角ばった物体は悠々とわたしの横を通り過ぎて行った。全力疾走も日頃の運動不足がたたったのか及ばず、無残にもそれは遠くへ消えていった。
そのおかげで時間はギリギリ。というか実際、乗り遅れた。12時発の便だったのだがバスから降りたのが12時。シンデレラもびっくり、ダンスホールで元の姿に戻っちゃったみたいなもんである。駅までの交差点の向かい側に旧友が立っているというサプライズがあったけれども、浮かれすぎたシンデレラにかまっているだけの余裕はなかった。すまん、旧友。
駅員さんに聞くと幸いなことに次の便がすぐにあり、現地到着時間には間に合うとのことだったので一安心。売店のパンをかじりながら、どうして重要な局面になるとドタバタ劇になってしまうのはどういうことなのだろうと考えていた。瞬時に、時間に余裕を持たないからだという明快すぎる答えが出てきた。分かりやすいなぁ。

そんなこんなで無事に某大学に着いて、人事課に行く。自己紹介と来た理由を述べると大学訪問などのときにいた気のいいおっちゃんが現れて奥に通される。座るよう促された席の目の前には三つの椅子が。アタマは瞬時に危険を察知した。「あれ、これ面接じゃね?」なぜなら今回の訪問が面接などとはさっぱり聞かされていなかったためである。聞かれたのは来られるかどうかで、言われたのはその時間のみ。それが採用するかどうか決めるためなどということすら言われていなかったのである。
まぁ、実際にはたいしたものではなかった。後に聞いたところでは、採用するにあたっての最終確認のようなものであったとのことである。聞かれたのは、これまでの他の試験の状況や現在何をやっているかということ。それと大学事務になったときに何をしたいのか。このへんは一度面接前に仕込んでいたところであったので何とか対応。並んだ三人の方は「踊る大捜査線」の上司三人組みたいな調子で、異常になごやかな雰囲気で行われた。
ある程度受け答えをした後、採用したいみたいな話が出てきた。カギになった一つの要因は留学経験とTOEICの成績だったようだ。この年代ならば英語信奉も根強いのだろう。これはわたしの考えていたもう一つの道、英語教師としては決して高い数字、十分な経歴ではない。けれども、おまけとしては機能したようである。一年無駄にして無茶してでも行った甲斐があったというものだ。
もう一つのカギは、「すぐ来た」というものらしい。これには拍子抜けした。聞くと、今回の補充のために数人に声をかけたらしいのだが、最初に来たのが自分であったとのことである。そして、それがどうやらやる気のバロメーターとして認識されているようなのだ。確かに採用する側として考えてみれば、すぐに来てくれる人間の方が印象は良いというのは理解できる。それで受かった身分で言うのもあれだが、そんなのでいいのかとは思わざるを得ない。その人間の質も本当のやる気もよく見ないままに先に来たから「採用!」みたいなことをやっていればミスマッチが起こるのは必然である。公務員の採用については、報告の電話に出なければ次の人間に権利が移るなんて話もあるが、あながち嘘でもないように思われる。すごい世界だぜ、大学事務。しかし、公務員を目指す方は知っていて損ではない情報か。

こんな調子で図らずも、就職が決まった。呼び出された時点でかなり期待をしていたのだが、やはりキチンと言われると喜びもひとしおである。思えば、長い戦いであった。臨時採用の話はあったのだがそこにあえて蹴りを入れて公務員を目指すことを決めたのはおよそ半年前。その結果はひどいものであった。大学法人はいくつか受けたが面接で全滅、県庁は一次落ち、頼みの綱の教員もまさかの一次落ち。さすがにこれほどまでの惨状は想像以上であり、極度に楽観的なわたしもある種の恐怖を感じていた。今年卒業とは言え、浪人と留学で二年のズレが生じている。年齢制限に近付くということであり、それだけのクオリティを求められるということになるし、残された可能性も少なくなる。それだけに枠を広げて、私企業の方も色々と眺めていたところであった。
これからは10月までに引越しや手続きを済ませるために東奔西走することになるだろう。バイト先への迷惑を最小限に抑えるためにも今月はほぼフルで出勤ということになったのでとにかく時間がない。しかし、これまでの方向の定まらない生活よりはよほどマシである。これからはしばらく更新が滞りがちになるであろうが、またヒマなときにでも覗いていただければありがたいことこの上ない。

最後に、公務員を目指しておられる方には大学事務をお奨めしておきたい。これまでまったく勉強をしていない人間でも、今からやれば来年の試験には間に合うだろう。まず筆記試験の範囲が狭い。あるのは教養試験だけで、これはセンター試験レベル程度の国語数学英語社会理科の問題と数的推理や判断推理などの知能問題で構成されている。センターを受けた人間であれば前者は復習程度で済む。もっとも選択制ではないので受けなかった科目は一からやり直す必要があるのだが。知能問題は毎日やって問題集を一冊仕上げればだいたいの解法は身に付けられる。わたしの場合、勉強期間は2ヶ月もなかったがうまい具合に受かることができた。県庁や市役所、国家Ⅰ種、Ⅱ種の場合は教養試験のほかに専門試験がある。政治学やら経済学など10科目程度で構成されており、法学部出身などでなければそれまでまったく触れることのない内容ばかりである。これはとてもじゃないが付け焼刃では歯が立たない。
また、受かる可能性がそれなりに高いという点がある。受験者は九州や四国などというエリアごとに一次試験を受けるが、それに受かればそのエリア内のどこの大学・高専でも志願できる。説明会の日程が重なるためにすべてというわけには行かないが、それでも2つ3つは受けられる。 さらに、受験者数は多いが一般的な認識としては他の公務員試験よりも低くランクされているので、どちらも受かった場合に蹴られやすい。そのため、今回のわたしのように突然合格通知が来るなどということも起こりうる。
その他、法人化以前は国家Ⅱ種であったので、待遇もそれなりに良い。また、中央省庁(文部科学省)に行けるというおまけ付き。ただし、午前様上等くらいの覚悟で行かなければ危険なのだそうだ。けれども、それに耐えれば大学でも部長以上の役職に付けるらしいので頑張る価値はあるようである。

二次の面接については何とも言えないが一次試験などについて、目指している方にはそれなりに参考になるアドバイスもしくは内部情報を提供できるかもしれない。コメント欄もしくは個人的にでも連絡をいただければ対応します。自分の冒険と失敗とギリギリの成功がこれからの誰かの役に立てば、それに勝る喜びはない。

新しくランキング登録しました。こちらもよろしくお願いします。
人気blogランキングへ

☆本日のコピペのコピペ☆
陶芸家が納得いかかない器を容赦なく叩き割る様をTVで見ながら


「良いわねぇ、失敗作をあんなに簡単に処分できるなんて。」

そう言って俺の顔をチラッと見る母

☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★

本日もご覧いただきありがとうございます。
↓↓愛のワンクリック募集中であります↓↓
ゲドを取り巻く外道ども
ゲド戦記。スタジオジブリ最新作にして、宮崎駿の息子吾朗氏の初監督作品。今もランキングでは一位を維持しているようであるから、それなりに売れてはいるようである。ただし、その評価は芳しくない。今回の場合は初監督作品ということで致し方ない部分もあろうが、前回の「ハウルの動く城」と同様にその仕上がり具合に批判が集中している。視聴者だけでなく、何と原作者もクレームと呼んだ方が適当と思われるような感想が寄せられているそうだ(「ジブリ映画「ゲド戦記」に対する原作者のコメント全文(仮)」ゲド戦記wikiより)。わたしはまだ見ていないけれども、こういった評判を見ると期待に応えるだけのクオリティを保っていなかったということは言えるのではないかと思われる。

ただ、ここで疑問なのが、こうした批判をマスゴミ側がさっぱり取り上げていないということである。宮崎アニメはブランドであり、売れて当然である。それが爆発的に売れていれば当然ニュースになるが、逆にそれが売れていなくてもまたニュースになり得る。彼らの大好きな「神話崩壊」という奴である。にもかかわらず、マスゴミは「ベネチア映画祭に特別出展」などという肯定的なニュースには触れても、これら否定的な動きにはほとんど触れることがない。

もうひとつ疑問なのは、「ヤフー!映画」の批評である。このサイトでは5段階の評価を付けられるのであるが、その評価が1点か5点かというように二極化している。ご覧いただくと理解できると思うが、この高評価の投票者がどこか胡散臭い。満点に評価しているものを見ると、感想は「思っていたよりも悪くない」「わたしは楽しめた」といったようなものが大半で、全面的に賛美しているようなものは少ない。文章も2,3行で終わっているものも少なくなく、ちっともその人間がどこに感動してどこを評価したのかといったことが伝わってこないのである。個人の感想というよりは批判に対する批判であり、騒動を沈静化させようという意図が見え隠れしている。そして、こういった見方をで眺めると、非常に「うまい」感想が多いのだ。批判されている部分を半分認めつつも、それに対して違った解釈を行って批判を和らげようとしている。たとえば以下のようなもの。

分かりにくい       → 子どもには難しいかもしれない
勧善懲悪過ぎてありきたり → キャラ配置が分かりやすい
つまらない、眠い     → シリアス

中には数々の批判を「アニメ好きの人達」の暴走であるとして、自ら「一般人」と称して賛美するような意見もあった。
これについては高評価レビュアーが単発ID(この映画にしかレビューを残していない人)の者が多いこと、その文体や内容が似ていることなどから、評価を底上げするために組織的に投票が行われたという指摘もされている。事実、「掲示板やブログが荒れることを未然に防ぐ」という名目で意図的に情報操作を行うことを業務とする会社もあるようである(→「ピットクルー」)。


こうしたジブリ擁護の雰囲気には、どう見積もっても何らかの力を感じざるを得ない。結局のところ、金儲けしか頭にない連中はまだ稼げると踏んでいるのであろう。彼らとしては宮崎アニメというブランドを失墜させることは、自分たちの商売にとって得ではないと考えたのではないか。そしてさらに、自分たちが悪いイメージを流布させなければ、馬鹿な国民はまた次回作も同じように身に来てくれると算段しているのではないか。そのためには事実と違うことでも無理やりに捻じ曲げて、強引に報道してしまう。あの笑撃の世界タイトルマッチを思い出していただければ嫌というほどに理解できるであろう。あの茶番劇も、あそこで負けては亀田親子というキャラクターの商品価値が下がるというそろばん勘定から導き出されたことであろう。打ち合わせが足りなかったのか二人の呼吸が合わず、あのような強引な判定勝ちになってしまったのは誤算だったに違いない。そのためにさすがにマスゴミも叩かざるを得ないようになってしまった。けれども騒動が終わってみると、興行の予定が新たに追加されただけであることに気付かされる。さすがに次回は綿密な打ち合わせをしてくるはずである。ここで勝利して、あの失敗をうやむやにしようとすることだろう。そもそもあの疑惑の判定は「災い転じて福と為す」わけでなく、初めから運営側の「一粒で二度おいしい」作戦であったのかもしれない。


マスゴミによる情報戦略は近年特に露骨になっているように思える。これにはネットという新たなメディアが誕生してその策略の及ばなくなっているということと無関係ではないだろう。その戦略は現在のところではネットの動きを制止できるほどではなく、また連携も十分ではないようで、ボロを見せてくれてはいる。しかし、今回の「ヤフー!映画」における批評の疑惑、そして直接的に関係があるかは分からないが荒れ防止ビジネスの誕生などに見られるように、そのネットの世界をもこれまでと同じように手中に収めようとしていることは確かである。(参考:「ネットで酷評「ゲド戦記」 なぜ、客入りは良好?」)

何度も申し上げていることであるが、情報を疑うということをお奨めする。その情報がどこから出ているものなのか、何のために流されているのかということを考えることである。そのひとつの手段となり得るのがインターネットである。掲示板やレビューサイトにおけるネット世論は将来的に操られかねないとしても、誰であっても情報発信することが可能という利点は揺るがない。そして、その利点がある限り、この統制された報道を破壊するための唯一の手段として機能し続けるであろう。

もっとも、現在のマスゴミがネットに置き換わることなどは不可能であるし、それによって明るい未来があるなどと考えるほど、わたしは楽観的ではない。もしそうなった場合にあるのは混沌でしかないのは重々承知である。言ってみれば、それは情報の奴隷となるか、乞食になるかということである。ネット社会の混沌はよく指摘されるところであるが、今の大多数の国民が置かれている状況は奴隷でしかない。この認識は重要なポイントであるかと思う。現在、国民はマスゴミという主人から与えられる情報を受け取るだけの存在である。それが一方的に悪いわけではない。そこには安定がもたらされるし、自分で考える必要もない。奴隷が一方的に酷使されていたと考えるのは誤りである。羊を虐待する羊飼いはおるまい。それは大事な商売道具なのである。ただし、逆に言えば奴隷は自ら考えることは許されない。あくまで主人の手のひらの上で生かされているだけである。つまり、そこには安定がある。けれども、そこには自由も真実もありはしない。
一方、乞食であれば頼ることのできる主人はいない。よって、自分が生きるためには自分自身で努力していく必要がある。情報を自らで収集しなくてはならないということである。それは言わば、混沌とした世界で生きることを許されるということだ。そこには自由があるし、真実にたどり着く可能性もある。しかし、そこに安定などは存在しない。

このどちらを選ぶかはあなた次第である。重要なのはその両者が一長一短であるということに気付くことである。とは言え、わたしが主張するのは言うまでも泣く後者である。飼われることに慣れきってしまった奴隷たちの解放こそが急務であると信じている。「太った豚よりも痩せたソクラテス」という言葉がある。これは実際には言い間違いとのことだが(注1)、この状況を言い表すには適当な言葉であるように思う。越え太った奴隷になるのか、痩せた乞食になるのかということだ。メディアなり政府なりイデオロギーなりというご主人様がどれほど信頼できるのかを考えれば、容易に判断できることであると思うのだが。

注1
もともとは、ジョン・スチュアート・ミルが書いた『功利主義』の中にある一節で、「満足した豚よりは、満足しない人間である方がよい。満足した馬鹿より、満足しないソクラテスである方がよい」だったそうである。
発端は1964年の東大卒業式で、当時の東大総長だった大河内一男氏が卒業生に向かって言おうとした言葉だそうだ。大河内総長は本番で気が変わってこの言葉を述べなかったが、訓辞用の原稿のコピーを前もって渡された新聞社が、「この言葉は名言である」と東大総長の権威の傘にかぶってそのまま印刷されてしまったらしい。

☆本日のコピペのコピペ☆
630 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2005/07/26(火) 00:01:56 ID:Y117RcAL0
ファミレスで「ガッツ」とだけ書いておいたら、普通に
「2名でお待ちのガッツ様ー」と呼ばれた。
ほんと普通に呼ばれたので思わず吹き出してしまった。

「奥の席でもよろしいですか?」と聞かれたので、
「OK牧場」と答えたら
店員が鼻水飛ばして吹き出した。

☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★

本日もご覧いただきありがとうございます。
↓↓愛のワンクリック募集中であります↓↓
勝手にカテゴライズ?
ご無沙汰しております。書きたい気持ちはヤマヤマだったですが、兄貴の気分次第でネットに接続できたりできなかったりの状況なのであります。ようやくADSLを契約したのでもう少しの辛抱です。温かく見守っていただければ幸いであります。

さて、今日は偏見についての話。勝手に妙なカテゴリーでまとめられて、文句を言われた経験は誰にでもあるだろう。たとえば、「最近の若者は」「近頃の女子高生は」といったようなものである。それは必ずしも真実ではない。むしろ、そうではないことの方が多いのではないか。しかし、それはある種の真実としていつのまにか生まれ、一人歩きをしているのである。
それはなぜか。それはあなた自身には当てはまらなかったとしても、そして全体としては半数を超えないとしても、あなたの属する枠組み内(中学生であったり、男性であったり、公務員であったり)の人間の一定以上の人間が、そういったことを行っていたためである。その何らかの要素における割合が「それ以外の枠組みと比較すると多い」というイメージが固定化して、定着しているのである。

それはあくまで一部に過ぎない。「偏った目で判断するな」「もっと一人一人を見て」、こういった意見はあまりに正しい。しかし、そんなことで解決するほど問題は単純ではない。このように考える方は、まず自分自身の認識の方法を疑ってみてはいかがだろうか。あなた自身も他のカテゴリーに対しては、同様の認識をしているはずである。「今の大人は」「今の教師は」「今の政治家は」といったようなもので、これもまたある一部のイメージが拡大したものでしかありえない。にもかかわらず、「今の教師はだめだ」「今の政治家はだめだ」という考えは、きっとあなたの中で確かな情報として認識されているはずである。これは最初に述べた「今の若者は」と何ら変わることがない。

人間は自分の知らないものに対しては偏った見方をしがちである。その不確かさを指摘するのは簡単だが、相手も自分も、そのような判断をしてしまうという現実をまず理解しなくてはならない。そもそも、「偏った見方をする」というと響きは悪いが、人間は入ってくる情報を常に取捨選択しているのであり、それはひとつの優れた機能であることを忘れてはならない。いわゆるADHDの方はこの部分(前頭葉らしいが)の働きが弱いために一つのことに集中できず、またパニックになりやすいと言われている。つまり、偏った見方をしているからこそ、集中も出来るしパニックにも陥らないので済むのである。

こうした相互間の不信感を助長させないためには、まずこの仕組み、つまり自分自身も偏見でモノを見がちであることを理解することである。また、自分の認識が本当に正しいのかについては常に疑ってみることである。人間は自分の都合の良い方に解釈したがる。よって、自分の属するカテゴリーに対しては、「そんなことはない」「勝手なことを言うな」と言うにもかかわらず、他者に対する批判の様式は「今の大人は」といったことになりがちなのである。


もう一つ、ここにより根本的な解決策がある。それは、一人一人が何らかのカテゴリーの一員であるという意識を持つことである。なぜ悪いイメージが流布してしまったのかというと、その中のある一定の人間が悪いイメージをもたらすような行為を行っていたためである。そのおかげでその行為には関係のない人間であっても、その人間と同じカテゴリーにいるというだけで同じように見られてしまうということが起こるのである。この点に関して思い起こされるのは、福沢諭吉の「学問のすすめ」初編の一節においてこのように述べる。

「一人の放蕩は諸人の手本となり、ついに世間の風俗を乱りて人の教えに妨げをなすがゆえに」「その罪許すべからず」

この部分は、自由とわがままの違いは他人に迷惑をかけるか否かにあるという主張に続けて彼が述べているものである。他人の迷惑にならないことが「自由」なのであれば、迷惑をかけなければ何でもして良いのかというと、そうではない。一人の行動は「諸人の手本」となって、「世間の風俗」を乱してしまう。よって、他人に迷惑をかけないからといって、何でもして良いわけではないことを彼は主張している。

何らかの悪事を働く人間は、それが他人の迷惑になるなどということは考えもしていないだろう。しかし、すでに述べたように人間は偏見でものを見ざるを得ない。そのために一人の行為はそのカテゴリーに属する人間の行為として、それ以外の人間には認識されてしまうのである。

より具体的に言うと、公務員の横領などはその行為それ自体も問題であるが、それ以上に公務員というカテゴリーの品位を汚すという点で許されないのである。また、援助交際なども同様である。売る側はお金を手にいれ、買う側はサービスを受け取る。誰にも迷惑をかけていない、と彼ら彼女らはうそぶく。しかし、これもとんでもない話なのだ。それはたとえば(これに限ることではないだろうが、もっともイメージが浸透しているのでこう言うが)女性、特に女子高生というカテゴリーのイメージを貶める行為なのであり、その点で絶対に許されないことなのである。

人間は一人で個人として生きているわけではない。これは何も空虚な励ましなどではない。そうであるがゆえの責任をまっとうすべきであるということを主張するがためである。人は必ずどこかにカテゴライズ、要するにどこかのカテゴリーに分類されているのである。であるから、自分の行為は個人の行為にとどまらずそのカテゴリーの行為としても認識されうる。このことを理解し、その自分のカテゴリーの品格を貶める行為などは厳に慎むべきである。それは自分自身のみならず、そこに属する他の人間のイメージまでを貶め、他人からの偏見をわざわざ生む結果となってしまうのである。


偏見は誰にでも起こりうる。このことを常に意識し、他者理解に努めるべきである。そして少なくとも、自分自身が悪いイメージを流布せぬようにし、できることならば世のイメージを覆すような品格を持って生きることである。わたしたちは一人ではない。イメージを悪くすることが可能なように、良くすることも不可能ではないのである。

ついでながら、ADHDについての面白いサイトを紹介しておこう。その名は「フロンティア☆ADHD」。漫画を利用して、ADHDに対しての知識が得られるようになっている。わたしもここでようやくそれが何たるかを理解できました。



☆本日のコピペのコピペ☆
111 :なまえをいれてください :05/02/25 18:43:18 ID:lCD1/K6Q
友達にどのプロバイダー使ってるか聞いたらさ、「教えぬ!」って言うわけよ。
ちょっとカチンと来たけど我慢してもう一度聞いたら、「だから教えぬ!」だってさ。
あんなに頑固な奴だとは思わなかったぜ

☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★

本日もご覧いただきありがとうございます。
↓↓愛のワンクリック募集中であります↓↓
悪い子の気持ち
中学・高校時代、たいていクラスには何人か先生に反抗する生徒がいたと思う。服装であったり、素行であったりといったことに関してである。当時としては、彼らの気持ちを理解することができなかった。なぜわざわざ面倒なことを自ら求めているのかと思っていた。けれども最近になって、何となく彼らの気持ちも理解できるようになってきたのだった。

象徴的な出来事がある。それは、バイト先のお偉いさんとの対立である。わたしは大学4年の頃にデジカメの販売員のバイトをしていた。これはお店に雇われるのではなくて、メーカーに雇われるもので、そのメーカーの機種を売るという仕事である。よって勤務する日によって店舗は異なっている。市内近辺にはヤマダとコジマ、それとカメラのキタムラがあり、その三店舗の中から会社側に決められた店舗に行くという形式を取っていた。
さて、その相手とはその内の一つの店舗の店長。その日、わたしはその店舗で初めての勤務であった。この店では一日働いた後に勤務報告の提出を義務付けられていた。その旨を店舗のスタッフの方に説明されて用紙をもらい、わたしはそれを書いていた。用紙には担当部門や販売実績などの数字に関する部分、そしてその下の方には「お客様からの要望」、「業務の中で困ったこと」といった項目があった。

この設問が後に問題を起こすことになる。わたしはこの質問をそのままに受け取った。さまざまな受験雑誌などを見れば分かるように、設問をしっかりと読んでから問われていることだけを簡潔に述べるというのは試験の鉄則である。この設問で問われているのは、読んで字のごとく、要望と困ったことである。そう確信して、わたしはその欄にお客様の要望と、業務中に困ったことを書いたのであった。その日に書いたのは、台数限定で安かった商品が展示品しか残っておらず、展示品で汚れてるんだから安くしてくれとお客さんに言われたことであったかと思う。

書き終わって、わたしはそれを店長に提出した。渡すと目の前で読み始める。どうやら、直々にありがたいお言葉をいただけるようだ。なんてことを考えていた矢先、突然言われたのがこんなお言葉。

「単にお客様から言われたことをそのまま受け取るんじゃなくて、自分で解決する方法を考えないと駄目だろ?」

こんな感じだったかと思う。そこから長々と「ありがたいお話」を拝聴することになった。詳細は省略するが要するに、「要望」「困ったこと」の欄にはその解決に至るまでの流れまで書かなければならなかったのであった。そして、彼は設問通りに「要望」「困ったこと」だけ書いたわたしの紙を見て、実際の接客でもそこで終わってしまったと勘違いして、説教を始めたのである。言うまでもないが、わたしとて単に客からの要望をそのまま聞いていたわけではない。あれこれと説明するなり、説得するなりという行動をしている。単に設問でそこまで問われていなかったために書かなかっただけである。しかし、彼はそんなことに気付きもしないし、わたしに真意を問おうとすることもない。一方的に自分の輝かしい接客テクニックをまくし立てるだけである。途中で口を挟もうともしたのだが、もうどうにも止まらない♪という調子で、独演会が終わる頃には言い返す気力も失せていた。

目の前の喧騒を聞き流しながら、そのとき考えていたのが、学校での悪い子たちの気持ちであった。彼らは今のわたしと同じように感じていたのではなかったかと。何か規律に反したことをした場合、その人間が意図的に破ってやろうという気持ちで、その行動を起こしたとは限らない。もしかしたら、何かの手違いで結果的にそうなってしまっただけという場合なのかもしれない。それだけに、その真意がどこにあったのかということは正確に汲み取る必要がある。それは言うなれば医療における診察であり、それなくして何の処置も投薬も意味を為さない。つまり、効果的な指導もできないし、改善も望めないということである。しかし現実には、その理由も聞かぬままにロクな人生経験もない人間が偉そうに人の道を語っておしまいという、指導とは名ばかりの自己満足がまかり通っている。学校においても、そしてこの家電量販店においても。相手はそれが本意でなかったことに気付きもしないし、その行動に至った理由を聞こうともしない。

こんなことを一度経験すると、もはやその人間を信用するなどということはできなくなる。信用というのはガラス細工のようなもので、作るには時間がかかるが、壊れるのは一瞬である。不良たちが「大人は分かってくれないのさ!」などと卑屈になって深みにはまるメカニズムも理解できなくはない。彼らは周りよりも大人びていて、しかも繊細なのだと思う。おぼろげながらも自分の考えがあるから対立もするし、繊細であるから教師のちょっとした一言でも大きな影響を受けてしまう。昨今はヤンキー漫画というジャンルが確立してしまって、そこから流入する人間も多いので一概には言えないが。


翻って教える側として考えてみると、このような生徒と接していくのは簡単なことではないだろう。たった一人の一言が、その人間一生の教師観、さらには大人観にまで影響を及ぼしかねない。とは言え、元々そのような覚悟を持って、そのような責任を背負うべきと考えるべきなのかもしれない。その覚悟があってこそ、初めて身を引き締めることもできるし、生徒への真摯な態度にも繋がるのではなかろうか。この件で言えば、叱って終わりという安易な解決(ちっとも解決していない)を図るのではなく、その真意を汲み取るよう努めるということである。簡単なことではないけれども、それなくして教育環境、職場環境における相互理解を求めることはできないであろう。そして、そのためにはまず、上に立つものがその手本とならねばならない。人の上に立つのは簡単なことではない。自分もまだまだ精進が必要である。

☆本日のコピペのコピペ☆
問: 「うってかわって」を使って短文を作りなさい。
答: 「彼は麻薬をうってかわってしまった」

☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★

本日もご覧いただきありがとうございます。
↓↓愛のワンクリック募集中であります↓↓

簡単、Webページ保存! 「紙copi Lite」
今回は「役立ちソフト紹介」ということで、自分が使っていて重宝しているフリーソフトを紹介したい。フリーソフトとは結局のところ、素人の作ったタダのソフトである。しかし、その性能は馬鹿にできない。最近は何をやるにしても、たいていのことはフリーで賄うことができる。また、これまでは自分で色々といじってやっていたことが、ソフトを使うことで瞬間的にできるということもある。さまざまなソフトを利用することで、あなたのパソコンライフが快適になればと思う次第である。

第一回目に紹介するのは「紙copi Lite」(配布サイト→Kamilabo.jp)インターネットの最中に、Web上のページを保存したいと思うことはないだろうか。たとえばどこかに行くときの乗り継ぎ表、ショッピングの際の注文確認表や振込先、面白かった記事、使えそうな論文など。その場合、「お気に入り」に登録するというのがもっともポピュラーな方法かと思われる。しかし、そうするとオンラインでしか見ることができない。またニュースなどの場合、古い記事はどんどん消されていくので、見つからなくなるおそれもある。「すべてを選択」もしくはテキスト部分を選択してWordなどに貼り付けるという手段はあるけれども、多くの場合は構成がズレてガタガタになる。そのページ自体を「名前を付けて保存」することも可能だが、名前を付ける手間がかかる。さらに数が多くなるとデスクトップがゴチャゴチャになったり、どこに行ったか分からなくなくなったりということが起こりがちである。わたしもまさにこうした状態にあった。大学在学中、ネットに繋ぐことができるのは大学の図書館のみ。よってWeb上の資料を保存する際には上記のような手段を取っていたのだが、多くの問題を抱えていたのであった。

こうした環境を劇的に変えてくれたのが、「紙copi Lite」である。インストールするとIE(インターネット・エクスプローラー)を開いているとき、つまりインターネットをしているときの右クリックメニューに「紙にページ全体を取り込む」という項目が追加される。保存したい画面上でここをクリックすれば、それだけで保存が完了する。それを見たいときはデスクトップ上の「紙copi」のアイコンもしくはタスクバー上(画面右下)のアイコンをクリックすれば見られる。基本的な使用法はこれだけ。使い慣れてくれば、フォルダを作成してそこに分類するなど色々なことができるようになるが、単にページをコピーするという目的だけに使っても十分に役に立つソフトである。

何のインセンティブも発生しないけれども日頃愛用している手前、有料版の宣伝もしておこう。このソフトには上位版「紙copi」がある。基本的な使用法は変わらないが、こっちの方は年月ごとに分類できたり、より詳細にページをコピーできたり、といった機能が加えられているとのことである。ヘビーに使われる方、金が有り余っている方はこっちを使われても良いかもしれない。

何にせよ、フリーというのはありがたいことである。特にパソコンのフリーソフトは市販のものを凌駕するものも少なくない。何かパソコンで作業をしている際に困難に遭遇したときは、安易にソフトを買うのでもなく、自己流で解決しようとするのでもなく、フリーソフト紹介のサイトなどを訪れることをお奨めする。きっと何かの解決策がそこにはあるはずである。

以下、フリーソフトの二強サイトを挙げておこう。どちらかと言えば分かりやすいという点で、窓の杜の方をお奨めする。

窓の杜
長所 ソフト数を厳選しているので、すぐれたソフトがすぐ見つかる
短所 自分の用途にぴったり合うものがあるとは限らない

ベクター
長所 数が非常に多いので、自分の用途に合ったものを探せる
短所 数が多すぎて、良いソフトを見つけにくい

☆本日のコピペのコピペ☆
368 名前:仕様書無しさん :05/02/26 23:33:31
今日久しぶりにレストランに行ってきた。
隣のテーブルにカップルが座っていて、ウェーターが料理を持ってきた。
「鈴木でございます」とウェーターが行った。
カップルの男の方が「久保田でございます」
女の方が「細谷でございます」と言った。

ウェーターは、背中が小刻みに震えながら、
「本日のお勧めの魚のスズキでございます」と説明していた。

☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★

本日もご覧いただきありがとうございます。
↓↓愛のワンクリック募集中であります↓↓
日本とタイを泳いだ魚、プラーニン
わたしは基本的にテレビを見ないのだが、先日なかなか面白い番組をやっていた。それは皇室関係の特番。紀子さまの出産前に合わせてなのか、出産までの経緯なども扱っていたが、それ以外にも他の皇族のエピソードなども交えた内容盛りだくさんの2時間番組であった。

数あるエピソードの中で、もっとも感動したのが「プラーニン」の話題。この魚は現在のタイでは安くて栄養のある大衆魚として広く普及しているらしいのだが、その普及に何と今の天皇陛下が関わっていた!という話である。

事の発端は、当時皇太子であった天皇陛下がタイの養殖試験場に足を運んだことにあったらしい。当時はタイも戦後の貧しい時期であり、タイの国王は国民のタンパク質不足に悩んでいた。そして、その解決策としてタイでは魚の養殖を研究していたのだった。その光景を見ていて、天皇陛下はそのとき研究していたものではなく別の魚をお勧めしたのだそうだ。後にその魚は天皇陛下からタイ国王に贈られ、王宮の池で飼育された後に漁業局に配られて大規模な繁殖が行われるようになった。その魚こそがプラーニンであった。

何で天皇陛下が?と思われる方もいらっしゃるかもしれないが、実はこの方は魚の研究者なのだ。

「ハゼの分類学的研究者であり、日本魚類学会に属して28編の論文を同学会誌に発表している。平成12年(2000年)には海外誌Geneに第一著者として論文が掲載されている。また平成4年(1992年)にはScience誌に"Early cultivators of science in Japan"という題の寄稿を寄せている。魚類学における業績は各国で評価されている。」 (wikipediaより)

こういった経緯で、プラーニンはタイにやってきた。最初に贈られた50匹は繁殖しやすいという評判どおり大増殖し、今ではすっかりタイの庶民の味として定着しているのである。育てるのが簡単ということで、学校での実習としてプラーニンの養殖がカリキュラムに組み込まれているところもあるという。また、1973年にバングラディッシュが食糧危機に陥ったときには50万匹のプラーニンがタイから寄付されたそうである。タイばかり出なくバングラディッシュ国民の命も救ったのである。


日本の天皇陛下が他国のお役に立っていたということ、しかも栄養改善という末端の末端の目に見えにくい、しかし何よりも大切な部分で関与していたということは、聞いていて何ともうれしいことであった。けれども、それ以上にうれしかったのは、タイの人々がそれを感謝してくれているということであった。プラーニンというのはタイの呼び名で、その名はタイ国王によって命名されたとのことであるが、その由来は何と天皇陛下の名前である。天皇陛下の名前の「明仁」から「仁」を取って、それをタイ語で「魚」を意味する「プラー」と組み合わせて「プラーニン」。タイ国王の敬意を感じることができる名である。それに加えて、この魚が日本の天皇に由来している魚であるということをタイの方々が忘れずに、次の世代にも伝えてくれているということである。授業の一環として養殖で扱われるということを紹介したが、その際には必ずこのエピソードに触れられるそうである。他の方のブログでのアンケートでは、質問したタイ人10人中全員がプラーニンを知っており、その中の7人は天皇陛下が寄贈したことを知っていたという。


このような調子で放送中はずっといい気分だったのだが、終了後にこういった美談はなぜ日本でほとんど知られていないのだろうかと考えると途端に嫌になってきた。杉原千畝などはわりと知られていると思うが、もっと探せばいくつも似たような話は出てくるはずである。こうした優れた人物の優れた行動を知ることは、それを学んだ者へひとつの行動モデルを与える。たとえば、この話に感動した人間は発展途上国の栄養改善を目指して学者になるかもしれない。千畝に感動した人間は外交官になりたいと思うかもしれない。こうしたモデルなしに何でもやっていいなどと言われても、やりたい何かが見つかるはずもない。手近にある情報などはどうしようもないものばかりである。テレビを眺めていても、守銭奴か犯罪者かの話か、それでなければ馬鹿ばかしいおしゃべりばかり。そんな環境を用意しておいて、殺人犯にあこがれる若者をどうやって責められよう。

メディアについては、その責任の重さを自覚すべきであろう。メディアはヒーローを作り出す。そして、人はヒーローにあこがれる。とすれば、それを作り出す側としては重大な責任があることを理解していなければならない。多少古いかもしれないが男ならばプロ野球選手、女ならスチュワーデスなどといったような子どもの将来願望モデルは、メディアの扱うイメージに大きく依存している。これらであれば問題ないであろうが、そればかりではない。たとえば西鉄バスジャック事件の犯人が酒鬼薔薇聖斗にあこがれていたように、過剰な報道と取り扱いはしばしば若者をミスリードさせてしまう。であるがゆえに公器としてのメディアは大きな責任が嫁せられており、誰でも参入できるわけでなく免許制になっているはずである。にもかかわらず、その座に甘んじて金稼ぎに精を出すなどというのは言語道断である。

教育の分野からも考えてみよう。先人のヒーロー化とそのモデルの強要をことさらに煽ってきたのが戦前の教育であり、その反動としてそれらへの拒絶反応があるのは理解できなくもない。とはいえ、それをそっくりなくしてしまうのは極端に過ぎるだろう。その内容と方法の取捨選択がされるべきなのであり、それをせずに一方的に反対という調子では、何も進歩していないことと同義である。わたしの意見としては先述の通り、優れた日本人は積極的に紹介されるべきであると考える。たとえば二宮金次郎や西郷どん、新渡戸稲造などであり、そこから得られるものは大きいであろう。それは心の教育などという心理学的な怪しいものをやるよりは、よほど有益であるかと思う。

人間なら誰しも、他の人間に注目を受けたい、評価されたいと思う気持ちはあることだろう。それならば社会としては、そしてまたその準備期間である学校という場においては、そういった願望が正しい方向に(正しいという言い方に抵抗があるのならば「悪くない方向に」でも良いが)発達していくことができるような土壌を用意するべきである。そして、そのひとつの方法として、先人の偉業を知るということは意味のあることであるかと思われる。

どれだけの人間が見たのかは知らないけれども、天皇陛下というヒーローを報道し、そのひとつの行動モデルを与えたという点で、今回の番組は非常にすばらしいものであったと評価することができる。グッジョブ、TBS。放送免許剥奪への署名は現時点では止めておくよ。→ TBS放送免許剥奪署名運動


最後に、話題に興味を持った方に内村鑑三の「代表的日本人」をお勧めしておく。その名の示す通り、代表的日本人として西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮という五人の偉人をとりあげ、その生涯を紹介している著書である。もともと海外の読者向けに英語で書かれた文章なので、文章も平易で分かりやすい。読めば歴史の授業などでは名前だけであった偉人たちが、生き生きと甦ることだろう。

なお、今回の記事についてはtrahito68さんによる「タイ☆キング of フリーダム in クルンテープ(バンコク)」内の「陛下のおさかな 『プラーニン』」を一部参考にさせていただきました。

☆本日のコピペのコピペ☆
地元のスポーツ用品店に、バット買いに行った時
俺「あの、ちょっとお尋ねしたいんですけど・・・」
店員「アニメイトなら5階ですよ」

1~4階:スポーツ用品店
5階:アニメイト

ブログランキング参加中。プラーニン、あんまりおいしくはないらしいです…。

韓流ブームの考察
最初にちょっと謝辞を。現在、FC2ランキング・社会部門で何と第2位!!
皆様のクリックでここまで来ることができました。
今後とも精進していきますので、よろしくお願いいたします。

さて、今日のテーマは時代遅れの感もあるが、韓流ブーム。一時の勢いはないにせよ、テレビでもインターネット配信のテレビでも、さらには映画でも韓国からの輸入物はここ最近で極端に増えている。そして、中年女性など一部の層を中心にそれなりに受けているようである。これらの層からは、今の若者向けの日本の作品よりも共感でき、面白いなどという声がある。しかしその反面で、このブームが作られたものであるという声もまた多い。その主張はさまざまであるが、日本のメディアが親韓であるから、在日朝鮮人系の勢力に飲み込まれているから、などという意見が見られる。

こうした現状に対して、わたしは常々疑問を抱いてきた。人気先導ではなく、メディア側が意図的に焚き付けたという印象は自分も持っていた。しかし、それを単純に日本のメディアが親韓であるからということで解決して良いものか。確かにニュースなどの報道で、明らかに韓国寄りの意見を主張するようなメディアは存在するけれども、それと同列に扱って良いものか。こういった疑問について、先日物思いにふけっているときにひとつの仮説を思いついたのだった。詳細の部分は調べていないので妄想の域は出ないことをここで断っておく。

わたしの考える、韓流がはびこった最大の理由。それは価格競争力である。韓国がいくら経済成長を続けつつあるとは言っても、日本の経済力には遠く及ばない。となれば人件費などの製作コストは、韓国の方が安くなることは容易に想像できる。ドラマにしても映画にしても、日本で新たに作るよりも相対的に安く作ることができるはずである。となると日本のドラマや映画、さらに欧米から輸入物に対して、韓国の作品は質という面以外に、価格の面からに有利となるのである。
これは農産物を考えてみれば分かりやすい。今の日本において、農産物は中国などからの輸入に頼りきっている。これはなぜかと言えば、価格競争力の面でまったく敵わないためである。日本産の農産物が質の点で劣っているわけではなく、むしろその点では有利ですらある。しかしそれが普及しないのは、大規模な農場や安い人件費で作られる海外産には値段の面で歯が立たないためである。多少質の部分で勝っていたとしても、圧倒的な価格差の前では太刀打ちができない。それが日本で農産物の生産が衰え、輸入に頼るようになった原因であり、それと同様のことが映像コンテンツの世界でも起こっているということである。テレビ番組などのメディアも安い輸入物で賄ってしまえば、テレビ局側は作るスタッフを抱えることも作る手間も要らず、さらに少ない予算で利潤を増やすことができる。テレビ局側としてはこれほどありがたい話はない。

よって、これまでも韓国ドラマ、韓国に限らず相対的に安く仕入れることのできる映像を流したいという欲求は局側にはあったはずである。ただし、そこには一つの障壁がある。それが日本人の嗜好に合うか、という点である。いくら安くとも視聴率が悪くてはCM料金が上がらない。基本的にテレビはCMの収入に頼っているわけであるから、儲けが減るということである。製作コストが安くなったとしてもそれ以上に儲けが減ってしまっては意味がない。

そう、そこでブームである。「韓国のドラマ・映画などというものが面白いですよ」ということをアピールするのである。その発端となったのが、「冬のソナタ」ブームだろう。この思わぬラッキーパンチで一度火が付いたところで、テレビ局各社は競うようにそこに一気に油を注いだ。冬のソナタだけでなく、他の作品も面白いのがありますよ、ぺ・ヨンジュン以外にもかっこいい人もいますよ、などといった調子である。要するにひとつの作品のブームを韓国ドラマのブーム、さらに韓国のエンターテイメント全般のブームへと結び付いていくよう、メディア側が誘導していったのである。


それが韓流であった。これがわたしの仮説である。その主因は韓国ドラマが日本のものよりも質が高かったためでなく、メディアが親韓だったためでもなく、単に安かったから、ということである。他のブログ等を見てもあんまりこういった主張をしている人間はいないようなのだが、メディア関係者のブログでほぼ同様の分析を発見することができた。こちらも参考にしていただきたい。ギョーカイ徒然草 9月1日(木)「ブームの終焉」

ブームがいったん沈静化した今、韓流はどうなるのだろうか。いったん普及した以上それを求める人間も少なからず存在し続けるだろうから、突然に消えてなくなるということはないだろう。しかし、これ以上の拡大はありえないだろう。言わば、これからが単なるブームでなく、韓流の真贋が問われるときであろう。クオリティが追いつかなければブームはブームとしてバーストするだけである。それがしぶとく生き残るか、それとも製作コストがトントンになったときに自然消滅するか。生温かく見守っていきたい。


☆本日のコピペのコピペ☆
689 :名無しさん必死だな :2006/09/01(金) 01:37:33 ID:
街で見かける偽みつお
お前ががんばれよ


ブログランキング参加中。韓流は微妙でも韓国料理はアリな方はクリック!
Designed by aykm.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。