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右傾化は悪くない。 ~マイク・ホンダ氏の報道がもたらしたもの
いささか旬は過ぎた感はあるが、マイク・ホンダを取り上げてみよう。従軍慰安婦への謝罪要求法案のアメリカ下院議員である。彼については一時期はずいぶんと騒がれていたが、どうも以前の勢いはない。謝罪法案は可決されそうだと言われていたのに、どういうわけか。
その大きな理由は、彼が中国系の組織から多額の献金を受けていることが明らかになったためではないか。この部分についてはメディアでの報道がそれ以前に比べると圧倒的に少ないため、ご存じない方もおられるかもしれない。少し前にこのニュースは産経新聞のトップを飾った。わたしは以前に述べたように産経新聞を読んでいるのだが、この産経がスクープをやってくれたのだ。他紙まではチェックしていないので扱いがどうだったかは分からないが、Wikipediaでわざわざ「産経が」と書いているところを見ると独占か、他は扱ったとしてもベタ記事でしかなかったのだろう。それは以下のようなもの。

2007年3月15日の産経新聞によると、ホンダ議員が2006年の下院選挙で受けた個人献金は、合計449人、金額にして約37万ドルである。このうち、中国系が94人、約11万ドル (人数で21%、金額で30%)であり、選挙区内の人口比率から見ると突出しているという。また、献金者の中には中国系の「反日団体」の幹部たちが多数含 まれるとしている。なお、韓国系の住民からの献金は、中国系の10分の1に留まるとしている。(Wikipedia「マイク・ホンダ」の項より

つまり、彼は中国系の団体から多額の献金を受けていたというもの。このたびの謝罪法案が、それら団体の意向であったことは想像に難くない。

こういうことがあるから言論の自由ってのは大事にせねばならないと思う。このスクープは、近年のいわゆる右傾化、そしてそれに迎合した産経新聞がもたらした成果と言ってよいだろう。10年ほど前までであれば、再び謝罪の憂き目に遭っていたことは想像に難くない。このような報道ができたということは、こういった報道を受け入れることのできる人間が育ったということである。これは小さな一歩とはいえ、評価すべきことであるとわたしは考える。ただし念のために言っておくが、それは右傾化がすばらしいなどというわけではない。

要するに、意見の多様化が必要ということであり、それこそを評価すべきと主張するのである。右だ左だと色々あるが、それはそれでどちらでもよいのだ。いわばそれは絵の具の種類みたいなもので、たくさんあればあるほどリアルを描くことができるのだ。特定の勢力のみが幅を利かせているような状況では、特定の色に染められて真実が歪められる恐れがある。その良い例が、そもそもの従軍慰安婦問題ではないか。これだけの問題になっているにもかかわらず、日本軍が組織的に慰安婦狩りを行ったことを裏付ける証拠はない。あった証拠はないけれども、なかった証拠もないなどという斬新な発想をされる方もいるらしい。もうね、阿呆かと。あった証拠がないということは、ないということだ。

バランスを取っておくと、いわゆる左派、たとえば共産党だって必要ないというわけではない。共産党の機関紙「赤旗」などはタイトルからして偏向しているわけだが、トヨタの悪口を書けるのはあそこくらいしかない。一般紙は大量の広告を受注させていただいており、それが貴重な収入源になっている。そのスポンサー様の意向には簡単には逆らえないのである。一方の「赤旗」は熱心な信者を抱えているのか闘争も厭わぬ魂を持っているのか知らないが、そういった大企業ネタにも果敢に取り組んでいる。その価値は十分に存在する。

人間は、まったく中立に物事を考えることなどできない。そんな人間の寄り集まっているのだから、真に中立な機関なども存在するわけがない。となれば、多種多様なるメディアこそ望まれるべきではないかとわたしは考えるのだがいかがなものか。道を歩いていても、まっすぐ歩いているなんてことはなくて、少しずつ右にずれたり左にずれたりしているわけだ。そうなれば誰だって逆方向に方向修正するのであって、このように考えれば右に行くことをことさらに怖れる連中の主張のおかしさが理解できるのではないだろうか。


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☆本日のコピペのコピペ☆

104のダイヤルで、電話番号を調べてもらうときに

「どういう漢字の人ですか?」

と聞かれ、

「おもしろくて明るい感じの人です」

と電話局のお姉さんを笑わせてしまった。
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投票に行こう ~ 国民は親であり、政治家は子である。
今日は選挙。方々で県知事選やら県会議員選が行われているようだ。選挙の風物詩といえば、候補者の名前を連呼する街宣車。ここ数日は、どこに行っても馬鹿でかい音量でわめき散らしているのを目撃したものである。さて、賢明なる皆様方であれば、あれでたとえ名前を覚えようともその人間に投票しようとは思わないことだろう。ただし、そういった人間は思うにまだまだ少数派のようだ。なぜといって、選挙に受かりたい候補者はこぞってあの手法を取り入れているからだ。わざわざ意味のないことに労を費やすほどの馬鹿はいない。あのようなことを行うということは、それが選挙に受かるという目的に役に立つためである。つまり、あの行為にも意味はある。もっとも、その意味というのは選挙に当選するという目的に対してのものに過ぎず、選挙民に自分の考えを広く伝える、他の候補者と比べての優位性を主張するなどという、まっとうな目的についての意味はこれっぽっちもないのだが。

「愚民の上に苛き政府あり」とはうまく言ったもので、政治家のレベルは国民のレベルに比例する。日本が普通選挙を取り入れて久しいが、政治家はロクに中身も確認せずに付き合いなどで適当に選ばれてきたというのが現実ではなかろうか。情に基づくものであるから、選ぶ方は見返りを求める。選ばれる方は見返りを与えないわけにはいかない。その見返りはといえば、地方の発展。そうして自分の住んでいるところの発展ばかりを望んできたからこそ、政治家は地方の利権の塊のような連中が選出されてきたわけだ。国を背負って立つような人間が生まれるはずもない。
国民がもっと優秀で自分の身の回りだけでなく国内外にも関心を持ち、より広い視野でもって社会全体をより良くしていこう、そしてそういったことを行うために優秀な人間を選ぼうという意志があれば、そういった政治家が選ばれるであろう。その時々で候補者の質は変化すると言えども、それが当選するか否かの要素となればそれぞれがその能力を競い合い、良い循環が生まれることとなる。
対象があって、対処がある。馬鹿な国民という対象があって、はじめて馬鹿に訴えかける愚かな政治活動という対処がある。とすれば、聡明な国民という対象があるとすれば、その国民への対処もおのずから変化せざるを得ないということもまた事実である。「愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり」とも諭吉は述べている。

いわば、この国民と政治家との関係は、親と子の関係なのだ。親を見て子は育つ。蛙の子は蛙。トンビの子はトンビ、鷹の子は鷹。ヤンキーの子はヤンキーだし、教員の子は教員だ。学校だの塾だのが発達したとしても、子の成長に最も強い影響を与えるのは親でしかない。よって、子どもを変えるためには、親が変わらなければならない。そして、子の責任は、親の責任である。すなわち、政治家の責任は、国民の責任である。近年、育児放棄、児童虐待などが問題になっているが、同様の問題は常に政治家と国民の間に存在している。普段は何の関心も持っていないにもかかわらず、自分の気に食わぬこと、社会的に認められないことをすれば、たちまち一方的なリンチである。(「すれば」というよりは「報道されれば」というべきか。)そこには自分たちが選び育てていくのだという責任感は微塵も見られない。チェック機能を果たせなかったと反省することもなく、騙された自分の愚かさへの悔いることもなく、よくもそんなことができたものだ。

国民は親であり、政治家は子である。政治家はわれわれ国民が育てるものである。虐待を行う親への批判ができる程度の知性の持ち主であれば、選挙の意義をもう一度考え直してみるべきだ。それに参加せぬということは、育児放棄に等しいのだ。たいていのところでは夜遅くまでやってるんだから、今からでも遅くはない。みなさん選挙に行きましょう。

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☆本日のコピペのコピペ☆
エリツィンの息子がエリツィンに聞いた。

息子「お父さん、酔っ払うってどういう感じなの?」
エリ「うーん、そうだな。そこにコップが2つあるだろう。
   それが4つに見えたらそれが酔っ払っているということだ。」
息子「でもお父さん、コップは1つしかないよ。」
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再開。
ずいぶんと久しく書いていない。書くことがないわけでも、書くだけの時間がないわけでもないのだが、どうも気乗りがしないので空白期間を設けてみた。それについては色々と考えて今に至るわけであるが、その中身まではここでいちいち触れることはしない。ならばわざわざそれに触れる必要もないのだが、一応これまで見ていただいていた方への釈明ということもある。また、それを書かずにいられなかったのはわたしのある種の自己顕示欲とも言える。ブログなんてものはそれが主成分なんだから、これについてはご勘弁願いたい。
結論はというと、これからもぼちぼち更新していこうかな、ということ。そのきっかけとなった言葉のみ紹介しておこう。

「未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある。」

成熟には、まだ遠いなぁ。


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