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友情よりも、人情を。
前回より、感性に任せるのではなく理性によって生きるということについて述べてきた。何度も言うように、わたしは理性によって生きることを主張している。ただし、前回も多少触れたようにそればかりですべてがうまく行くとは思わない。その辺をさらにもう少し付け加えておきたい。
智に働けば角が立つ、といったのは夏目漱石だ。これまで理性的に生きるということを主張してきたけれども、そう主張せざるを得ないという現状が、基本的に人間は理性によって生きていないということを表している。そして、であるがゆえにすべてがその理性によって解決するということでもない。法定速度で車を走らせていました。そこへ道端でふざけあっていた子どもが突然車道に出てきて、接触してしまいました。この場合、悪いのは運転手ではなくて、飛び出してきた子どもの方だろう。けれども、だからといって謝罪もしない、安否も気遣わないという態度が認められるかというとそうではあるまい。その他、ペットの不法投棄という問題を考えてみるが良い。ある犬Aをすでに飼っている家庭が、たまたまペットショップで見かけた他の犬Bの方がかわいかったからとそっちを購入して、以前のものは山に捨てに行くなんてことが認められるだろうか。極論ではあるが、理性的に考えた結果、すなわち本能や感情に支配されずに思考、判断した結果、AよりもBの方が優れている、との判断があったとしても、それは到底認められるものではない。一度飼い始めたのであれば、よほどの問題がない限りは死ぬまで責任を持て、それができないのであれば最初から飼うな、というのが大多数の意見であろう。動物でもそうである、いわんや人間においてをや、である。子どもへの虐待だの育児放棄だのがよくニュースを賑わせているが、とんでもないことである。

このように、理性ですべてが解決するというわけではない。そして、それはわたしたちの通常の感覚とも一致するのではないかと思われる。かといって、この理性に対抗するのが感性のような人間の本能的な感覚であるとは思わない。なぜ感性ではいけないのかと言えば、それが簡単に周囲に流されるものであるためである。これについては前回既に述べたところである。もう一点は後述するが、現代においては本能的な感性だけでは対応できないと考えるためである。

理性に対して相補的な役割をするとわたしが考えるのは、人情である。この言葉は辞書的な意味ではなく、友情や愛情という特定少数に対するものを包含する、不特定多数に対するより対象の広い思いやりの感情の意で用いている。その特徴は打算的でないということ。何かのためにするのでなく、そうあるべきという価値観に基づくものである。なぜならば、それはその人間との関係性によって異なるものであってはならないためである。上の例に沿って言えば、ペットを捨てるという行為が許されないのは、それが好きだからとか嫌いだからとかということではないし、人を轢いた人間が被害者に謝らなければならないのは、その人間が自分の知り合いであるためでもない。まして、子どもを育てるということは、その子が好きだからということではない。それは友情愛情のような感情以前の、人間としてのレベルにおいて認められないのである。

人間として本能的に持っているべきというものをことさらに重要であると主張するのは、それが急速に失われているように思うためである。昔の人間は確実に自分の言うところの人情を持っていた。これは何も懐古主義ではない。古来の人々がそれほど高い倫理観を持って生きていたなどとは思わない。あくまでお互いの助け合いがあってようやく生きられた時代であったということであり、それが生きていくために不可欠なことであったというだけである。現代はずいぶんと便利になった。金さえあれば人とのつながりなどなくても十分に生きていける。何かものを買いに行くにしても、そこで行われるのは機械的なやり取りであり、それは人間と人間との付き合いとは言えない代物である。かく言うわたしも地域の人々とのつながりなどはこれっぽっちもない。このような社会においては、他人への思いやりなどというのは必ずしも必要でなくなってしまった。これが感性というものでは対応できないと主張した所以である。それが必ずしも必要ではないとは言っても、そういった世の中をわたしたちは望まないだろう。だからそう意識することが必要なのである。これは、環境問題に考えれば分かりやすいだろう。昔の人間は環境に配慮していたわけではなかったが、環境への影響は少なかった。けれども、人間の生活レベルが向上すればするほどに環境への負荷は大きくなってきた。それゆえに、現代人は環境というものを意識的に配慮しながら生きなくてはならなくなっているのである。

人情なき友情は恐ろしい。人情なき愛情は、それ以上に恐ろしい。これらは単に自分の好きなもの、自分に都合の良いものだけが好きという勝手気ままな感情に過ぎない。それは逆に言えば、好きではない者、まったく知らない者に対しては何をやってもいいという発想にも繋がりうる。友情だの愛情だのというものを否定するつもりはないが、それ以上に大切なのはそれらを包含する、より根本的でなくてはならないはずの人情である。
グループによるいじめなんてのは学校ではよくある話だが、そうしたいじめグループはある意味で実に友情にあふれているように思われる。皆で同じことに打ち込み盛り上がる、何と麗しい友情であることか。問題はそれがスポーツか何かでなくいじめであるという点だが、いじめられる側は友達ではないのだから考慮の対象外。友達を大切にしましょう、なんて説教は、あいつは友達じゃないと言われてしまえば一瞬で意味を為さなくなる。クラスはみんな友達でしょ、なんてさらに寝ぼけたことを言われそうだが、何十人もいれば相容れない人間がいたとしてもおかしくないだろう。となればより重要であるのは、好きではない人間に対してもある程度の配慮を忘れてはなならないということではなかろうか。
人情なき愛情は、恋愛関係においてはそれが壊れたときに、ストーカーだの心中だのという物騒なことにつながりうるだろう。その二人をつないでいたのは愛情しかないのだから、切られた側はその愛情をそれらの手段で強要することになるだろう。その愛情がなくなるということイコールその相手の消滅なのだから、その思いを遮るものは何もない。当然ながら認められないながら、これは実に理屈に適った行動パターンだ。一方、その相手への感情がそのもの自体としてある場合には、その関係性が途切れたとしてもそれ以外の形でその関係は存在しうることだろう。もっとも、その途切れ方にもよるのだろうが。親子関係においては、先述のように育児放棄などにつながるだろう。


このように、わたしは人情なるものを何よりもまず大切なものと考えている。そして、それを実際に自分自身での第一の行動原理としている。身近な人間に比べて、赤の他人への配慮というのは時に窮屈である。それは面倒だし、何より報われることもない。けれども、そうしたしがらみの中で生きていかねばならないものであると思う。その原動力は倫理観などという高尚なものではない。自分にとっては赤の他人である人も誰かにとっては大切な人であるように、どこかで誰かが誰かとつながっていて、その一人一人がこの社会を構成しているのだという世界観である。言わば、情けは人のためならず、というやつであり、自分にとってされたくないことをされたくないから、そしてされたいことをされたいから、という単純な話に過ぎない。
また、もうひとつ思うのは、赤の他人への行動こそが打算なき行為であり、その人間の普遍的性質として信頼に足るものではないかという点である。友人などの知り合いに対する親切は、たとえ望まなくとも少なからず見返りを期待できるものである。一方で、赤の他人への親切は基本的にそういったものを期待できない。それでもなおその行為をわざわざ行うということは、何かのためにやっているのではなくまさにその行為をするためにやっていると考えられるのであり、その行動というのは高く評価するに値するのではないかと考えるのである。

これが全てうまく行っているかというと、そういうわけではないし、それがすべて正しいと考えるほどわたしは恥知らずではない。このブログのタイトルの示すように、中くらいに考え中くらいに行動するということ、つまり普通に考えて普通に行動するということを忘れて目の前のことを見失いがちになるのは常なることであり、それは毎度の反省のタネである。これについては親愛なる周囲の方々のご指摘、そしてそれらの方々の価値観に触れることによって、角が取れたり余計に尖ったりもしながらもバランスを取っているところである。
ただし、それが不完全なものであるにしても、そこにまったく意味がないとは思わない。それが誰かが何かを考えるきっかけにはなりうると思うためである。異文化コミュニケーションは自分の文化を映し出す鏡である。となれば、それが何であるにせよ自分の目に映るものをそのままを表現することが誠実さではないかと考えるがゆえである。思想としても、行動としても、受けを考えれば、「友情って大事だよね」「愛って美しいよね」なんてことを書いているに越したことはないのだろうが、当たり障りのない会話を続けるほど無駄なことはない
また、これには理解してほしいという思いもあるのだろう。自分の行動は心によって読むしかなく、他人の心は行動によって読むしかない。ここにあらゆる齟齬の生まれる素地がある。そうとすれば、それがたとえ伝わらぬにせよ、自分の考えを表明しておくことは無意味なことではないかと思われるのである。


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973 :名無しさんの初恋 :2005/10/21(金) 12:19:10 ID:62VjHhNU
女「ねえしりとりしよう。」
男「ああいいよ。」
女「それじゃあ『しりとり』から」
男「りす」
女「すいか」
男「からす」
女「また『す』?じゃあ、『すずめ』」
男「めす」
女「また『す』!?どうしてあなたは『す』ばっかり返してくるの!?」


仕 方 な い だ ろ。 君 に「 す き 」 と 言 わ せ た い ん だ か ら さ

974 :名無しさんの初恋 :2005/10/21(金) 14:02:38 ID:6O4RzRD1
>>973
キタコレ

975 :名無しさんの初恋 :2005/10/21(金) 17:07:12 ID:/o/Z6RAO
そんで
「す・・・すき」
っていったら何事も無かったかのように
「きんたま」
とか続けるんだろ

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理性と感性
前回は、イメージに流されることなく、客観的に物事を判断することの大切さについて述べた。これをより抽象的に言えば、感性を信じるな、ということだ。一時の感覚に惑わされることなく、理性によって判断を行え、ということである。いろいろと定義のある用語であるからこの文章中の定義を確認しておこう。感性とは、「外界からの刺激を直感的に印象として感じ取る能力」の意、一方の理性とは「本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力」の意、いずれも辞書を引けば出てくるような、通俗的で用いている(なお、定義は明鏡国語辞典より)。今回はこの二つを対比させることから、もう少し前回述べたことに付け加えたい。

物事を理性的に判断する、つまり道理に基づいて思考するということは、これまで日本において軽んじられてきたように思う。何せ「和を以って貴しとせよ」の国である。和を大切にするというと結構なことのように思えるけれども、それは結局のところ何かを決定する際には物事の良し悪しでなくその場に居る人間が納得できる形にしましょうということである。この全員が納得できる形、というのが問題で、世の中には奇人変人、自分のことしか考えないような奴など様々な人間がいるのだけれども、全員が納得できるということに固執するとそれらの意見まで汲んでやる必要が出てくる。当然そうなれば本来あるべき姿から乖離していくわけであるが、そのことよりも「みんなで仲良くやりましょう」という人間の本能的な感性(これ自体が悪いわけではない)を優先させて、それをも辞さず、と考えていたのが日本の通俗的な発想ではなかったか。その場の雰囲気、感覚が決定要因となっていた。

その問題点は大きく分けて二つ。一つは他の誰かに迷惑をかけるということだ。先述の通り、その場の雰囲気で物事を決めようとすれば、本来のあるべき姿からは遠ざかっていく。もちろん、その場にそれ以外の者がいなければ道理に基づく必要はなく、ある程度の妥協があっても構わない。たとえば「今日の飲み会どこに行く?」と相談するときに道理に基づいて、全員の希望が最大限に考慮される選択肢を選ばずとも、世の中にさほど影響があるわけではないだろう。けれども、そうではない場面も当然にあるのであり、その場合それは必ず誰かへとしわ寄せが来る。最近の話題で言えば、社会保険庁の職員内で「和を以って貴しとせよ」とやったのが今の年金問題ではないか。あのずさんな管理体制は社会保険庁と労組の妥協の産物であり、それが生まれ今に至るまで続いてきたのは、そこに「国民のため」という意識が不在だったためである。そしてその結果、もらえるはずの年金がもらえないという事態が生じているのである。
問題の本質は、彼らのうちにサービスとは本来どのようにあるべきかという価値観がまったく欠如していたということにある。これを一部の人間の悪行として扱うことは間違いだ。彼らの大多数は自分たちが悪いことをしているという自覚はなかっただろう。何となく周囲に流されて、あのようなことを続けていたのではあるまいか。言わば、それが世間一般から見てどうであるかと考える能力が欠けていたのである。悪いことをやった人間が、必ずしも悪いことをしていると自覚しているわけではない。その多くはそれが悪いことと感じることもないままにやっているのである。世に言うところの無知は罪なりとは、このことである。
もう一つ例を付け加えておこう。何かの代表を決める投票があるとして、それが町内会か何かの名誉職のようなものであれば「世話になってるから」などと投票しても害はなかろう。しかし、国家の代表たる国会議員などとなると話は別だ。その人間は国民全体を背負って立たなければならないのであり、それだけの資質を持つ人間が選ばれなければならない。これを町内会長感覚で選んできたのがこれまでの選挙であり、その当然の結果として政治家は政治的能力を著しく欠き、それらの人間は地方代表の利権運び屋にしかならなかったのである。

もう一つ。そのようなことをしていては人間として信用されないということだ。これは当人に直接降りかかる不都合である。その場の雰囲気や感情で物事を判断するような人間を信頼に足ると考えるだろうか。前回述べたように投票する人間をノリや好き嫌いで選んでいるような人間がいれば「こいつ大丈夫か?」と思われることだろう。通常の人間関係においても、人だのモノだのに対して好き嫌いといった感情のみで語る者は少なからず存在しているが、その手の連中が信用を受けているという事例はあまり知らない。感性的、というか感情的、というと何となく女性的なイメージがあるかと思うがそうではない。あの男らしいジャイアンなんてその例の最たるものだ。彼に「心の友よ~♪」なんて言われたって、その語る言葉すべてが胡散臭く聞こえるだろう。そういうことだ。そもそも、「好き」という感情はさもすばらしいことのように扱われているけれども、どうもわたしにはそれが理解できない。そこに何か理性的な裏付けがあるというのならば話は別なのだろうが、その感情は非常に頼りないもののように見えるのだ。そう思うことはそう思っているうちはいいけれども、いつかちょっとした拍子でコロリと反対の「嫌い」に変わってしまうように思える。

以上2点、感性任せにすることの危険性について述べてきた。とは言え、感性というものが何も不要とまで言っているわけではない。全体のバランスを考えると、それはわざわざそれを大切にする必要はないということである。また、感性を大切にするにしても理性的な裏付けが必要ではないかということである。日本人の感覚には感性を大事にするという心が十分に組み込まれている。その上でさらにそれが大事だと考えるのは供給過多と思われるだけである。現時点で必要なのは理性で以って評価することである。政治の惨状を見よ。国民が適当に選んできたツケがこれである。また、消費者が事あるごとにブームにフラフラと流されていくような調子ではマトモな商品開発はおぼつかない。一発勝負で、奇をてらったものが氾濫するようになるだろう。今、この日本に起こりつつあることが、その末期症状のようにわたしには映るのである。



総じて、感性によって生きるということは、常に何かに流されながら生きるということである。企業のCMだったり、政治家の甘言だったり、職場の雰囲気だったり、はたまた自分の感情であったり。それの行き着く先は分からない。川を流れる小枝が自分の行き先を知らぬのと同じことだ。それは他人に迷惑をかけるし、信用もされない。一方で、理性的に生きるということは、周囲に流されることなく、立ち止まってどうあるべきかを常に考えながら生きるということである。理性とは、イカリのようなものである。これによってこそ、感情に流されず冷静な判断も可能になる。安定した社会を望まぬ者はおらぬだろう。そのためには、一人ひとりが安定した価値観を持つことである。感性のような不確かなものに身を任せるのではなく、理性的に生きようとすることである。

あれこれ考えた上での「かくあるべき」という理想はそれぞれ異なってくるだろうし、同じ事象についてもその価値判断が同じになるとは限らない。自分が理性という問題を考えざるを得なかったのも両親がともにまさに感性の塊で、毎日毎日小学生レベルの不毛なケンカを繰り広げていたという極めて個人的な理由のためである。それは人それぞれの生まれ育ちなどによって大きく変わってくることだろう。けれども理性を以てすれば、対話が可能である。たとえば感性が大切であるという意見もまた理性的なものであれば対話は可能である。好きだ嫌いだという感性では対話はそもそも成り立たないし、両者の溝は埋められない。しかし、「わたしはこのように考えるからこう考えるのだ」とすれば、完全に一致することはなくともお互いの価値観を共有することは不可能でないだろう。

そのために重要と考えられることは、価値観と人格を別のものとして扱うということである。この両者の混同が活発な対話を妨げているという意見は何度も耳にするところである。つまり、誰かの意見や思想を批判することをその人間それ自体への批判として扱われてしまう、ということである。こうなると多少でも価値観にかかわるような内容は対話の対象とできなくなり、当たり障りのないどうでもいい話しかできなくなるだろう。そして、それは必然的に価値相対主義、すなわち「みんなそれぞれ違ってるんだからそれでいいじゃん」という発想につながる。響きは悪くないけれども、これは結局「自分には自分の意見があるのだから他の意見は絶対に認めない、お前はお前で勝手にしやがれ」ということである。他者の意見の一切の拒絶であり、こういった態度ではどうでもいいことでは仲良くなれたとしても、本質的な部分で理解しあうなどということはとても不可能である。健全なる対話のためにも、そしてそれによって生み出される健全なる人間関係のためにも、この両者は分けて考える必要がある。


最後に、理性的に生きる、ということについて。それが具体的にどういったものなのかについては述べてこなかったし、述べる必要もないと考えている。理性的に生きるということは、自らで考えるということである。となれば、理性的に生きるということは理性的に生きるとはどういうことかと考えることから始まるのではないかと思われるためである。

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☆本日のコピペのコピペ☆
239 名前: 名無しさん@3周年 投稿日: 03/05/12 19:04 ID:lEI/Qjhe
恥を忍んであえて聞く。 WinnyとかMXって何なんだ? 馬鹿にも理解できる様に噛み砕いて教えてくさい…

241 名前: 名無しさん@3周年 投稿日: 03/05/12 19:08 ID:hS0rcg2Z
>>239
CD・ビデオショップに行ったら開店してるのに店員がいないんです。そんな感じです。

247 名前: 名無しさん@3周年 投稿日: 03/05/12 19:12 ID:107MrFll
>>241
あまりにも的確すぎてワラタヨ(´д`)
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企業の論理、政治家の論理
参院選が近い。そろそろ広報活動も盛んになってくるんでしょうな。しばし前に民主党のCMが話題になった。嵐吹く船上で小沢党首が吹き飛ばされて、鳩山と管が抱きかかえるというアレ。入院騒ぎを思い出させるだとか情けないだとかで不評だったアレ。(CM。YouTubeより。)あれがマスコミで取り上げられるための策略であればそれはすごいと思うが、多分違うだろう。あんなもの流すくらいなら鳩山由紀夫のHPのFLASH流したらいいのに、なんてことも思ったものだった。これは一部には非常に有名な作品で、政治家らしからぬなかなかバカな出来であり、最初はとてもオフィシャルサイトの看板を飾るものだとは信じられなかったシロモノである。(鳩山由紀夫HP

ところで、CMだのHPが面白いから、なんて理由で投票する候補者、政党を選ぶような奴がいたとしたらどのように考えるだろうか。おそらく、あまり賢い人間だとは思わないだろう。このことに異論を挟む方はそうおらぬだろう。では、それはなぜそうなのか。これは端的に言えば、「CMが面白い」ということが「良い政党、候補者である」ということには結びつかないためだ。何もCMには限らない。握手したから、知り合いが応援しているから、やたら自称仏教徒が勧誘してくるから、ということも、何の意味も持たない。それらは、その候補者が優れているという証明にはとてもならない。優れた候補者を選ぶためには、その人間がこれまでどのようなことをやってきて、これから何をやろうとしているのかについてをつぶさに観察する必要がある。その作業なくして、その人間が優れているかどうか、政治家としての価値があるかどうかについては分からないだろう。
この問題については、国民の間でもある程度の意見の一致が見られるように思う。だからこそ、数年前からマニフェストなんて言葉が選挙のたびに喧伝されるようになってきている。これはつまり、その人間、もしくは属する政党がこれから何をやろうとしているかを表したものである。これはこれまで縁故だの利権だので選ばれてきた政治家を、当人の政策によって選択しようという試みであり、それが導入されたということは社会の成熟と言っても良いだろう。もっとも、今のものを見るとどれもこれも美辞麗句ばかりで、それが実際の選択の助けになるとは思えない。けれども、それがさらに進化するか否かは国民次第だ。都合の良いことばかりを書く人間が淘汰されるようになれば、その内容も具体的かつ意味を持つものとなってくるだろう。

このように、政治についての国民意識は十分とは言えないまでも、それなりに進歩してきたと思う。ただし、ここで話は終わらない。それ以外の部分についてはどうか、これが今回わたしの述べたい部分である。たとえば何かモノを買うときに、人がどのように判断するかというと、まだまだCMなどに左右されているように思われるのである。たとえばTSUBAKIを買った女性の方、どうやったって無理ですぜ。そもそもシャンプーは顔でなくて髪を洗うもんです。美しい日本の液晶、アクオス。国内生産が可能になったのは、格差が進んで国内でも安い労働力が手に入るようになったからという、実に美しくない背景があるわけですが、と。
これらはいずれもよく売れた商品だが、そのきっかけとなったのはその宣伝である。もちろん商品として優れていたという部分もあろう。実際に使ってみると良いのかもしれない。ただ、問題であるのはそのCMの与えるイメージのみによって中身を考えることもなく購入に至っているのではないか、という点である。それは鳩山フラッシュが面白いから、と民主党に投票する人間と果たしてどこが違うのか。
たかがシャンプーで世の中は変わりえない。そう考えるのが普通の考え方かもしれない。しかし、自分としてはそうは思えない。市場において何らかの商品を購入するということは、その商品を支持すると表明すること、つまり選挙における一票と同等の意味を持つと考えるためである。企業は売れるものを作ろうとする。これがもっとも根源的な企業の行動原理である。だから、良いCMを作ることが良い商品を作ることよりも効果的であるという結果が出れば、企業は良いCM作りに没頭して商品作りはおろそかになってしまうことだろう。それはイメージのみにとどまらない。値段であっても同様だ。値段が安いということが良い商品を作るということよりも効果的であるとの判断がされれば、手段を選ばぬコスト削減をやってのけようとするだろう。そりゃあ雨水で解凍だってするだろう。それは倫理的には認められないけれども、企業の論理から考えれば至極まっとうなことである。涙ぐましい企業努力と言えなくもなかろう。
これは政治家が人気を取ろうとするということと同じである。となれば、解決策も同じことが考えられる。政治家の資質を向上させるために必要なのは、国民がパフォーマンスやイメージだけでなく能力のある政治家を支持することである。同様に、企業に良いものを作らせるために必要なのは、国民がイメージでなく品質の良いものを支持することである、つまり宣伝などに流されることなく、商品の質を比較して、より良い商品を購入するよう習慣づけることである。

インターネットの各種比較サイトは、その有効な解決策として評価されるに値すると考える。テレビ等でのCM、雑誌など旧来メディアの広告などでなく、口コミのような消費者の生の声が広がるようになり、良い商品が発掘されるきっかけが生まれたということは素直に喜ばしいと思う。もっとも、ランキングのちょっとした違いで売れ行きが激変するという加熱ぶりを聞くといささか行き過ぎでないかと思わなくもないのだが。また、企業もそれを黙って見ているわけではない。その消費行動の変化に付け込んで口コミマーケティングなんてことを思いついている。これは何のことはない、ただの自作自演だ。つまり、自社の商品をネット上などの口コミで取り上げられるよう自ら仕向けていくということである。先日、大学主催のビジネス市民講座のようなものに参加したんだが、こんなことをIT企業のそこそこの立場の方が偉そうに講釈たれるわけだ。倫理もクソもあったものではない。ま、やはりどこか不自然なところがあって、それなりにまともな判断力を持っていれば胡散臭いことには気付けるはずだ。最近だと、セカンドライフとかセカンドライフとか、セカンドライフとか。ちなみに、過去の偉大な失敗例としてはソニーのウォークマンAのプロモーションブログがある。(Google検索「ソニー 炎上 ウォークマンA」

企業も政治家も良いことをするに越したことはないのだが、残念ながらそのようにはできていない。それは軽薄なメディアで言われるように個人の倫理の問題などではなく、そもそも職業として本来そういうものなのだ。であるから、国民は安易にそれらの情報に流されることがあってはならず、それらの一挙手一投足を見つめ、より良い行動を取るよう導いていかなくてはならない。それが民主主義と市場経済の中に生きる我々国民に課せられた役割であり、義務であるのである。


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悟りなんか開くんじゃない!
悟りと言う字をバラしてみろ。
小五
  ロ リ
小五ロリ、小5ロリだぞ!?
小5ロリを開いてどうする気だ、この変態!

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