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ゲドを取り巻く外道ども
ゲド戦記。スタジオジブリ最新作にして、宮崎駿の息子吾朗氏の初監督作品。今もランキングでは一位を維持しているようであるから、それなりに売れてはいるようである。ただし、その評価は芳しくない。今回の場合は初監督作品ということで致し方ない部分もあろうが、前回の「ハウルの動く城」と同様にその仕上がり具合に批判が集中している。視聴者だけでなく、何と原作者もクレームと呼んだ方が適当と思われるような感想が寄せられているそうだ(「ジブリ映画「ゲド戦記」に対する原作者のコメント全文(仮)」ゲド戦記wikiより)。わたしはまだ見ていないけれども、こういった評判を見ると期待に応えるだけのクオリティを保っていなかったということは言えるのではないかと思われる。

ただ、ここで疑問なのが、こうした批判をマスゴミ側がさっぱり取り上げていないということである。宮崎アニメはブランドであり、売れて当然である。それが爆発的に売れていれば当然ニュースになるが、逆にそれが売れていなくてもまたニュースになり得る。彼らの大好きな「神話崩壊」という奴である。にもかかわらず、マスゴミは「ベネチア映画祭に特別出展」などという肯定的なニュースには触れても、これら否定的な動きにはほとんど触れることがない。

もうひとつ疑問なのは、「ヤフー!映画」の批評である。このサイトでは5段階の評価を付けられるのであるが、その評価が1点か5点かというように二極化している。ご覧いただくと理解できると思うが、この高評価の投票者がどこか胡散臭い。満点に評価しているものを見ると、感想は「思っていたよりも悪くない」「わたしは楽しめた」といったようなものが大半で、全面的に賛美しているようなものは少ない。文章も2,3行で終わっているものも少なくなく、ちっともその人間がどこに感動してどこを評価したのかといったことが伝わってこないのである。個人の感想というよりは批判に対する批判であり、騒動を沈静化させようという意図が見え隠れしている。そして、こういった見方をで眺めると、非常に「うまい」感想が多いのだ。批判されている部分を半分認めつつも、それに対して違った解釈を行って批判を和らげようとしている。たとえば以下のようなもの。

分かりにくい       → 子どもには難しいかもしれない
勧善懲悪過ぎてありきたり → キャラ配置が分かりやすい
つまらない、眠い     → シリアス

中には数々の批判を「アニメ好きの人達」の暴走であるとして、自ら「一般人」と称して賛美するような意見もあった。
これについては高評価レビュアーが単発ID(この映画にしかレビューを残していない人)の者が多いこと、その文体や内容が似ていることなどから、評価を底上げするために組織的に投票が行われたという指摘もされている。事実、「掲示板やブログが荒れることを未然に防ぐ」という名目で意図的に情報操作を行うことを業務とする会社もあるようである(→「ピットクルー」)。


こうしたジブリ擁護の雰囲気には、どう見積もっても何らかの力を感じざるを得ない。結局のところ、金儲けしか頭にない連中はまだ稼げると踏んでいるのであろう。彼らとしては宮崎アニメというブランドを失墜させることは、自分たちの商売にとって得ではないと考えたのではないか。そしてさらに、自分たちが悪いイメージを流布させなければ、馬鹿な国民はまた次回作も同じように身に来てくれると算段しているのではないか。そのためには事実と違うことでも無理やりに捻じ曲げて、強引に報道してしまう。あの笑撃の世界タイトルマッチを思い出していただければ嫌というほどに理解できるであろう。あの茶番劇も、あそこで負けては亀田親子というキャラクターの商品価値が下がるというそろばん勘定から導き出されたことであろう。打ち合わせが足りなかったのか二人の呼吸が合わず、あのような強引な判定勝ちになってしまったのは誤算だったに違いない。そのためにさすがにマスゴミも叩かざるを得ないようになってしまった。けれども騒動が終わってみると、興行の予定が新たに追加されただけであることに気付かされる。さすがに次回は綿密な打ち合わせをしてくるはずである。ここで勝利して、あの失敗をうやむやにしようとすることだろう。そもそもあの疑惑の判定は「災い転じて福と為す」わけでなく、初めから運営側の「一粒で二度おいしい」作戦であったのかもしれない。


マスゴミによる情報戦略は近年特に露骨になっているように思える。これにはネットという新たなメディアが誕生してその策略の及ばなくなっているということと無関係ではないだろう。その戦略は現在のところではネットの動きを制止できるほどではなく、また連携も十分ではないようで、ボロを見せてくれてはいる。しかし、今回の「ヤフー!映画」における批評の疑惑、そして直接的に関係があるかは分からないが荒れ防止ビジネスの誕生などに見られるように、そのネットの世界をもこれまでと同じように手中に収めようとしていることは確かである。(参考:「ネットで酷評「ゲド戦記」 なぜ、客入りは良好?」)

何度も申し上げていることであるが、情報を疑うということをお奨めする。その情報がどこから出ているものなのか、何のために流されているのかということを考えることである。そのひとつの手段となり得るのがインターネットである。掲示板やレビューサイトにおけるネット世論は将来的に操られかねないとしても、誰であっても情報発信することが可能という利点は揺るがない。そして、その利点がある限り、この統制された報道を破壊するための唯一の手段として機能し続けるであろう。

もっとも、現在のマスゴミがネットに置き換わることなどは不可能であるし、それによって明るい未来があるなどと考えるほど、わたしは楽観的ではない。もしそうなった場合にあるのは混沌でしかないのは重々承知である。言ってみれば、それは情報の奴隷となるか、乞食になるかということである。ネット社会の混沌はよく指摘されるところであるが、今の大多数の国民が置かれている状況は奴隷でしかない。この認識は重要なポイントであるかと思う。現在、国民はマスゴミという主人から与えられる情報を受け取るだけの存在である。それが一方的に悪いわけではない。そこには安定がもたらされるし、自分で考える必要もない。奴隷が一方的に酷使されていたと考えるのは誤りである。羊を虐待する羊飼いはおるまい。それは大事な商売道具なのである。ただし、逆に言えば奴隷は自ら考えることは許されない。あくまで主人の手のひらの上で生かされているだけである。つまり、そこには安定がある。けれども、そこには自由も真実もありはしない。
一方、乞食であれば頼ることのできる主人はいない。よって、自分が生きるためには自分自身で努力していく必要がある。情報を自らで収集しなくてはならないということである。それは言わば、混沌とした世界で生きることを許されるということだ。そこには自由があるし、真実にたどり着く可能性もある。しかし、そこに安定などは存在しない。

このどちらを選ぶかはあなた次第である。重要なのはその両者が一長一短であるということに気付くことである。とは言え、わたしが主張するのは言うまでも泣く後者である。飼われることに慣れきってしまった奴隷たちの解放こそが急務であると信じている。「太った豚よりも痩せたソクラテス」という言葉がある。これは実際には言い間違いとのことだが(注1)、この状況を言い表すには適当な言葉であるように思う。越え太った奴隷になるのか、痩せた乞食になるのかということだ。メディアなり政府なりイデオロギーなりというご主人様がどれほど信頼できるのかを考えれば、容易に判断できることであると思うのだが。

注1
もともとは、ジョン・スチュアート・ミルが書いた『功利主義』の中にある一節で、「満足した豚よりは、満足しない人間である方がよい。満足した馬鹿より、満足しないソクラテスである方がよい」だったそうである。
発端は1964年の東大卒業式で、当時の東大総長だった大河内一男氏が卒業生に向かって言おうとした言葉だそうだ。大河内総長は本番で気が変わってこの言葉を述べなかったが、訓辞用の原稿のコピーを前もって渡された新聞社が、「この言葉は名言である」と東大総長の権威の傘にかぶってそのまま印刷されてしまったらしい。

☆本日のコピペのコピペ☆
630 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2005/07/26(火) 00:01:56 ID:Y117RcAL0
ファミレスで「ガッツ」とだけ書いておいたら、普通に
「2名でお待ちのガッツ様ー」と呼ばれた。
ほんと普通に呼ばれたので思わず吹き出してしまった。

「奥の席でもよろしいですか?」と聞かれたので、
「OK牧場」と答えたら
店員が鼻水飛ばして吹き出した。

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