スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:-- | スポンサー広告 | Trackback(-) | Comment(-)
友情よりも、人情を。
前回より、感性に任せるのではなく理性によって生きるということについて述べてきた。何度も言うように、わたしは理性によって生きることを主張している。ただし、前回も多少触れたようにそればかりですべてがうまく行くとは思わない。その辺をさらにもう少し付け加えておきたい。
智に働けば角が立つ、といったのは夏目漱石だ。これまで理性的に生きるということを主張してきたけれども、そう主張せざるを得ないという現状が、基本的に人間は理性によって生きていないということを表している。そして、であるがゆえにすべてがその理性によって解決するということでもない。法定速度で車を走らせていました。そこへ道端でふざけあっていた子どもが突然車道に出てきて、接触してしまいました。この場合、悪いのは運転手ではなくて、飛び出してきた子どもの方だろう。けれども、だからといって謝罪もしない、安否も気遣わないという態度が認められるかというとそうではあるまい。その他、ペットの不法投棄という問題を考えてみるが良い。ある犬Aをすでに飼っている家庭が、たまたまペットショップで見かけた他の犬Bの方がかわいかったからとそっちを購入して、以前のものは山に捨てに行くなんてことが認められるだろうか。極論ではあるが、理性的に考えた結果、すなわち本能や感情に支配されずに思考、判断した結果、AよりもBの方が優れている、との判断があったとしても、それは到底認められるものではない。一度飼い始めたのであれば、よほどの問題がない限りは死ぬまで責任を持て、それができないのであれば最初から飼うな、というのが大多数の意見であろう。動物でもそうである、いわんや人間においてをや、である。子どもへの虐待だの育児放棄だのがよくニュースを賑わせているが、とんでもないことである。

このように、理性ですべてが解決するというわけではない。そして、それはわたしたちの通常の感覚とも一致するのではないかと思われる。かといって、この理性に対抗するのが感性のような人間の本能的な感覚であるとは思わない。なぜ感性ではいけないのかと言えば、それが簡単に周囲に流されるものであるためである。これについては前回既に述べたところである。もう一点は後述するが、現代においては本能的な感性だけでは対応できないと考えるためである。

理性に対して相補的な役割をするとわたしが考えるのは、人情である。この言葉は辞書的な意味ではなく、友情や愛情という特定少数に対するものを包含する、不特定多数に対するより対象の広い思いやりの感情の意で用いている。その特徴は打算的でないということ。何かのためにするのでなく、そうあるべきという価値観に基づくものである。なぜならば、それはその人間との関係性によって異なるものであってはならないためである。上の例に沿って言えば、ペットを捨てるという行為が許されないのは、それが好きだからとか嫌いだからとかということではないし、人を轢いた人間が被害者に謝らなければならないのは、その人間が自分の知り合いであるためでもない。まして、子どもを育てるということは、その子が好きだからということではない。それは友情愛情のような感情以前の、人間としてのレベルにおいて認められないのである。

人間として本能的に持っているべきというものをことさらに重要であると主張するのは、それが急速に失われているように思うためである。昔の人間は確実に自分の言うところの人情を持っていた。これは何も懐古主義ではない。古来の人々がそれほど高い倫理観を持って生きていたなどとは思わない。あくまでお互いの助け合いがあってようやく生きられた時代であったということであり、それが生きていくために不可欠なことであったというだけである。現代はずいぶんと便利になった。金さえあれば人とのつながりなどなくても十分に生きていける。何かものを買いに行くにしても、そこで行われるのは機械的なやり取りであり、それは人間と人間との付き合いとは言えない代物である。かく言うわたしも地域の人々とのつながりなどはこれっぽっちもない。このような社会においては、他人への思いやりなどというのは必ずしも必要でなくなってしまった。これが感性というものでは対応できないと主張した所以である。それが必ずしも必要ではないとは言っても、そういった世の中をわたしたちは望まないだろう。だからそう意識することが必要なのである。これは、環境問題に考えれば分かりやすいだろう。昔の人間は環境に配慮していたわけではなかったが、環境への影響は少なかった。けれども、人間の生活レベルが向上すればするほどに環境への負荷は大きくなってきた。それゆえに、現代人は環境というものを意識的に配慮しながら生きなくてはならなくなっているのである。

人情なき友情は恐ろしい。人情なき愛情は、それ以上に恐ろしい。これらは単に自分の好きなもの、自分に都合の良いものだけが好きという勝手気ままな感情に過ぎない。それは逆に言えば、好きではない者、まったく知らない者に対しては何をやってもいいという発想にも繋がりうる。友情だの愛情だのというものを否定するつもりはないが、それ以上に大切なのはそれらを包含する、より根本的でなくてはならないはずの人情である。
グループによるいじめなんてのは学校ではよくある話だが、そうしたいじめグループはある意味で実に友情にあふれているように思われる。皆で同じことに打ち込み盛り上がる、何と麗しい友情であることか。問題はそれがスポーツか何かでなくいじめであるという点だが、いじめられる側は友達ではないのだから考慮の対象外。友達を大切にしましょう、なんて説教は、あいつは友達じゃないと言われてしまえば一瞬で意味を為さなくなる。クラスはみんな友達でしょ、なんてさらに寝ぼけたことを言われそうだが、何十人もいれば相容れない人間がいたとしてもおかしくないだろう。となればより重要であるのは、好きではない人間に対してもある程度の配慮を忘れてはなならないということではなかろうか。
人情なき愛情は、恋愛関係においてはそれが壊れたときに、ストーカーだの心中だのという物騒なことにつながりうるだろう。その二人をつないでいたのは愛情しかないのだから、切られた側はその愛情をそれらの手段で強要することになるだろう。その愛情がなくなるということイコールその相手の消滅なのだから、その思いを遮るものは何もない。当然ながら認められないながら、これは実に理屈に適った行動パターンだ。一方、その相手への感情がそのもの自体としてある場合には、その関係性が途切れたとしてもそれ以外の形でその関係は存在しうることだろう。もっとも、その途切れ方にもよるのだろうが。親子関係においては、先述のように育児放棄などにつながるだろう。


このように、わたしは人情なるものを何よりもまず大切なものと考えている。そして、それを実際に自分自身での第一の行動原理としている。身近な人間に比べて、赤の他人への配慮というのは時に窮屈である。それは面倒だし、何より報われることもない。けれども、そうしたしがらみの中で生きていかねばならないものであると思う。その原動力は倫理観などという高尚なものではない。自分にとっては赤の他人である人も誰かにとっては大切な人であるように、どこかで誰かが誰かとつながっていて、その一人一人がこの社会を構成しているのだという世界観である。言わば、情けは人のためならず、というやつであり、自分にとってされたくないことをされたくないから、そしてされたいことをされたいから、という単純な話に過ぎない。
また、もうひとつ思うのは、赤の他人への行動こそが打算なき行為であり、その人間の普遍的性質として信頼に足るものではないかという点である。友人などの知り合いに対する親切は、たとえ望まなくとも少なからず見返りを期待できるものである。一方で、赤の他人への親切は基本的にそういったものを期待できない。それでもなおその行為をわざわざ行うということは、何かのためにやっているのではなくまさにその行為をするためにやっていると考えられるのであり、その行動というのは高く評価するに値するのではないかと考えるのである。

これが全てうまく行っているかというと、そういうわけではないし、それがすべて正しいと考えるほどわたしは恥知らずではない。このブログのタイトルの示すように、中くらいに考え中くらいに行動するということ、つまり普通に考えて普通に行動するということを忘れて目の前のことを見失いがちになるのは常なることであり、それは毎度の反省のタネである。これについては親愛なる周囲の方々のご指摘、そしてそれらの方々の価値観に触れることによって、角が取れたり余計に尖ったりもしながらもバランスを取っているところである。
ただし、それが不完全なものであるにしても、そこにまったく意味がないとは思わない。それが誰かが何かを考えるきっかけにはなりうると思うためである。異文化コミュニケーションは自分の文化を映し出す鏡である。となれば、それが何であるにせよ自分の目に映るものをそのままを表現することが誠実さではないかと考えるがゆえである。思想としても、行動としても、受けを考えれば、「友情って大事だよね」「愛って美しいよね」なんてことを書いているに越したことはないのだろうが、当たり障りのない会話を続けるほど無駄なことはない
また、これには理解してほしいという思いもあるのだろう。自分の行動は心によって読むしかなく、他人の心は行動によって読むしかない。ここにあらゆる齟齬の生まれる素地がある。そうとすれば、それがたとえ伝わらぬにせよ、自分の考えを表明しておくことは無意味なことではないかと思われるのである。


新しくランキング登録しました。こちらもよろしくお願いします。
人気blogランキングへ

☆本日のコピペのコピペ☆
973 :名無しさんの初恋 :2005/10/21(金) 12:19:10 ID:62VjHhNU
女「ねえしりとりしよう。」
男「ああいいよ。」
女「それじゃあ『しりとり』から」
男「りす」
女「すいか」
男「からす」
女「また『す』?じゃあ、『すずめ』」
男「めす」
女「また『す』!?どうしてあなたは『す』ばっかり返してくるの!?」


仕 方 な い だ ろ。 君 に「 す き 」 と 言 わ せ た い ん だ か ら さ

974 :名無しさんの初恋 :2005/10/21(金) 14:02:38 ID:6O4RzRD1
>>973
キタコレ

975 :名無しさんの初恋 :2005/10/21(金) 17:07:12 ID:/o/Z6RAO
そんで
「す・・・すき」
っていったら何事も無かったかのように
「きんたま」
とか続けるんだろ

☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★ ☆ ★

本日もご覧いただきありがとうございます。
↓↓愛のワンクリック募集中であります↓↓
スポンサーサイト
Comment
≪この記事へのコメント≫
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
Secret: 管理者にだけ表示を許可する
 
Trackback
この記事のトラックバックURL
≪この記事へのトラックバック≫
Designed by aykm.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。